一〇五四年、ヤロスラフ賢公は死に臨んでキエフ・ルーシを子たちに分けた。誰か一人に渡すのではなく、全員に一段ずつ席を与え、上が空けば順に繰り上がらせる仕組みである。争いを避けるためのよく考えられた分け方だったが、世代が進むほど回らなくなった。
原初年代記は、九世紀にノヴゴロドの人々が争いをやめられず、海の向こうのヴァリャーグに来て治めてくれと頼んだ、と伝える。応じたのがリューリクである。その一族がキエフ・ルーシを治めた。この家をリューリク朝という。
リューリクの後はオレグ、次いでリューリクの子とされるイーゴリが継いだ。イーゴリは九四五年、ドレヴリャーネ人から貢を二度取り立てようとして殺される。妃のオリガは使者を生き埋めにし、蒸し風呂で焼き、都を焼き払って復讐したと年代記は記す。幼い子に代わって国を治め、のちにコンスタンティノープルで洗礼を受けた。
スヴャトスラフ一世は生涯を遠征に費やした。ハザールを破り、バルカンで戦い、帰る途中に討たれる。残された三人の子ヤロポルク、オレグ、ウラジーミルが争い、ウラジーミルが勝ち残った。
ウラジーミル一世は九八八年、ギリシア正教を受け入れる。ビザンツ皇帝バシレイオス二世の妹アンナを妻に迎えることが条件であった。キエフの人々はドニエプル川で集団の洗礼を受ける。この選択が、ルーシをどの文明圏に属させるかを決めた。
ウラジーミルには多くの子がいた。一〇一五年に父が没すると、スヴャトポルクが弟のボリスとグレプを殺したと年代記は伝える。抵抗せずに死を受け入れた二人はルーシで最初の聖人となり、スヴャトポルクは「呪われた者」と呼ばれた。
勝ち残ったのがノヴゴロドにいたヤロスラフである。一〇一九年にキエフの座につき、賢公と呼ばれた。法典ルースカヤ・プラウダを整え、聖ソフィア大聖堂を建て、書物を集めた。娘たちはヨーロッパ各地の王家に嫁いでいる。アンナはフランス王アンリ一世の妃となり、その子がフィリップ一世である。キエフはこのころ、ヨーロッパの王家が縁を結びたがる相手であった。
問題はその後である。一〇五四年、ヤロスラフは子たちに土地を分けた。長子イジャスラフにキエフ、次子スヴャトスラフにチェルニゴフ、三子フセヴォロドにペレヤスラヴリと、序列のある都市を年の順に与えたのである。
この分け方には仕組みがある。キエフの座が空けば次に年長の者が繰り上がり、その下も順に一つずつ上の都市へ移る。全員が梯子を一段ずつ上がっていく形で、はしご継承と呼ばれる。父から子へ縦に渡すのではなく、兄弟のあいだを横に渡り、それが尽きてから次の世代へ移るという考え方である。土地を切り分けて別々の国にするのではなく、一族の共有財産として順に管理させる、といったほうが近い。
この仕組みは、世代が進むほど回らなくなる。兄がキエフの座につく前に死ぬと、その子は梯子から外れてしまうからである。順番の来ない家系の子は追放公と呼ばれ、土地を求めて争いを起こした。世代を重ねるほど公の数は増え、席は増えない。
一〇九七年、諸公はリューベチに集まり、おのおの自分の父の地を保て、と定めた。梯子を上がるのをやめ、それぞれの都市を家ごとに世襲することにしたのである。争いを抑えるための取り決めであったが、結果としてキエフ・ルーシは公国の集まりへ変わった。
フセヴォロドの子ウラジーミル・モノマフは、一時この分裂を押さえた。母はビザンツ皇帝コンスタンティノス九世モノマコスの娘とされ、名はそこから来ている。だがその死後、分裂はふたたび進む。
分かれた枝は、それぞれの土地で別の道を歩んだ。北のノヴゴロドは公を招いては追い出す商業都市になり、西のガーリチ・ヴォルィーニはポーランドやハンガリーと関わりを深め、北東のウラジーミル・スーズダリには新しい都市が興る。モスクワの名が年代記に初めて出るのも、この北東の地である。
一一六九年、ウラジーミルの公アンドレイ・ボゴリュブスキーはキエフを攻め落として略奪した。そのうえで自分はキエフへ移らず、ウラジーミルにとどまっている。キエフの座はもはや、一族の頂点ではなくなっていた。
一二四〇年にモンゴルがキエフを落としたとき、ルーシはすでに一つの国ではなかった。のちにモスクワ大公国を興すのも、この北東の枝に分かれたリューリク朝の一族である。家系図の上では、ヤロスラフの遺言から二百年かけて、一本の幹が数十の枝に散り、そのうちの一本だけが太く育ったことになる。
分かれた枝のうち、モスクワの枝はやがて他の公を従えていく。イヴァン三世がモンゴルへの貢を絶ち、イヴァン四世が最初のツァーリを名乗った。どちらもリューリクの子孫を称している。
一五九八年にフョードル一世が没して男系が絶えるまで、この一族は七百年余り続いた。分割相続で無数の枝に分かれたことが、結果としてどこかの枝を生き残らせたともいえる。一本に絞る継承は強いが、その一本が折れれば終わる。