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保元・平治の乱:天皇家も摂関家も源平も割れた

一一五六年と一一五九年、都で二度の戦が起きた。保元の乱と平治の乱である[1][2]。この二つが分かりにくいのは、敵味方が家で分かれていないからである。天皇家も摂関家も源氏も平氏も、それぞれの内側で割れ、割れた片方どうしが手を組んだ。図の根が四本とも割れているのは、そのためである。

割れ目はどこにあったか

天皇家 — 崇徳天皇と後白河天皇は、ともに鳥羽天皇と藤原璋子の子で、同母の兄弟である[3][4]。あいだに立った近衛天皇だけが母を異にし、鳥羽が寵愛した藤原得子の子だった[3]。鳥羽は一一四一年に崇徳へ譲位を迫り、幼い近衛を立てる[3]。一一五五年に近衛が十七歳で没したとき、崇徳は自分の子の重仁親王が立つと考えたが、実際に立ったのは弟の後白河だった[3][4]。崇徳は上皇でありながら、父にも弟にも道を塞がれた形になる。

摂関家 — 藤原忠実は長男の忠通と対立し、一一五〇年に氏長者の地位を取り上げて次男の頼長へ与え、忠通を義絶した[5]。兄弟が家の代表を争う形になった[5]

源氏 — 源為義と、その長男の義朝である[6]。義朝は東国で独自の地盤を築いており、父とは別に動いていた[6]

平氏 — 平忠盛の子の清盛と、忠盛の弟の忠正である[7]。清盛から見れば叔父にあたる[7]

なぜ家ごとに割れたのか

四つの割れ方には、共通の理由がある。院政のもとでは、家の代表を決めるのが当主ではなくなっていた。天皇家では鳥羽が誰を位に就けるかを決め、摂関家では忠実が誰に氏長者を渡すかを決め、武士の家では院の側近になれた者が上に立つ。決める人が家の外にいるかぎり、家の中の父子や兄弟は、それぞれ別の後ろ盾を探すしかない。

だから割れ目は似た形をしている。先に立つはずだった側が押しのけられ、あとから来た側が引き上げられる。崇徳と後白河、忠通と頼長、為義と義朝、忠正と清盛。四つとも、順序どおりなら上に立っていた者が外されている。

保元の乱

一一五六年七月二日に鳥羽法皇が没すると、抑えが外れた[1]。同じ月の十一日、崇徳上皇方と後白河天皇方が武力で衝突する[1]

  • 崇徳上皇方 — 藤原頼長、源為義、源為朝、平忠正
  • 後白河天皇方 — 藤原忠通、信西、平清盛、源義朝、源頼政

戦いはほぼ一夜で決した[1]。頼長は矢傷を負って逃れ、七月十四日に没する[5]。崇徳は讃岐へ流された[1]

処分は、身内の手で行われた。七月二十八日、平清盛が叔父の忠正を六波羅で処刑する[7]。七月三十日には、源義朝が父の為義を斬った[6]。武士は朝廷の争いに動員されただけでなく、一族を自分で始末させられている。

平治の乱

三年後、今度は勝った側が割れた。後白河上皇の近臣のうち、信西(藤原通憲)が国政を主導したことに、同じ近臣の藤原信頼が反発する[2]。一一五九年十二月、信頼は源義朝と結んで挙兵し、信西を排除した[2]

熊野へ参詣に出ていた平清盛が都へ戻ると形勢が逆転した[2]。義朝は敗れて東国へ落ちる途中、尾張で家人の長田忠致に殺された[2]。義朝の子の頼朝も捕らえられたが、清盛の継母の池禅尼の嘆願で助命され、配流にとどまった[2]

保元の乱で同じ側に立った清盛と義朝が、三年で敵になっている。武士どうしの序列は、朝廷の内輪もめのたびに組み替えられていた。

清盛は翌一一六〇年に正三位となり、八月には参議に任じられて、武士として初めて公卿の列に入った[2]

二つの乱が決めたもの

保元の乱の前、武士は院や摂関家に雇われる存在だった。二つの乱を経て、朝廷の争いは武士を動かさなければ決着しなくなり、その武士を統べる者が公卿になった。決めていたはずの院が、決めるための武力を武士に握られたことになる。

図の四本の根のうち、割れたまま残ったのは清盛の側と、東国へ逃れた頼朝である。二十年後、この二人の家が争う。清盛を倒すのは、平治の乱で助命された側だった。池禅尼の嘆願が武家の政権を生んだ、とも言える。

参考文献

  1. [1]ウィキペディア(保元の乱)
  2. [2]ウィキペディア(平治の乱)
  3. [3]ウィキペディア(崇徳天皇)
  4. [4]ウィキペディア(後白河天皇)
  5. [5]ウィキペディア(藤原頼長)
  6. [6]ウィキペディア(源為義)
  7. [7]ウィキペディア(平忠正)