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ナポレオンの兄弟:一族をヨーロッパの王座に配った

ナポレオンは征服した国に、自分の兄弟を王として置いた。兄をスペイン王、弟をオランダ王、末弟をヴェストファーレン王、妹をナポリ王妃にしている。ヨーロッパの地図に、コルシカのひとつの家の兄弟姉妹が並んだ形になった。図の二段目に横一列で並ぶ名が、そのまま当時の王座の一覧である。

コルシカの八人

カルロ・ボナパルトレティツィアの子は、成人した者だけで八人いる。コルシカの小さな貴族の家で、フランス領になったのはナポレオンが生まれる前の年である。

父は早く死に、母が家を保った。ナポレオンが権力を取ったとき、この八人がそのまま手駒になる。家柄がないぶん、頼れるのは血のつながった者だけだった。

王座に配る

ジョゼフは一八〇六年にナポリ王、一八〇八年にスペイン王へ移された。ルイは一八〇六年にオランダ王、末弟のジェロームは一八〇七年にヴェストファーレン王になる。

姉のエリザはトスカーナを治め、妹のカロリーヌは夫のミュラとともにナポリ王妃になった。ミュラは宿屋の息子から元帥に上がった男で、ナポレオンの妹と結婚したことで王になっている。

占領地に将軍を置けば忠誠を疑う必要が出る。兄弟を置けば、少なくとも家の利害は共有される。血縁は、任命の理由としては簡単で、取り替えの利かない資格でもあった。

配ったとおりには動かない

しかし王になった兄弟は、置かれた国の側にも立ちはじめる。ルイはオランダの経済を守るために大陸封鎖を緩め、兄と対立して一八一〇年に退位した。ジョゼフはスペインで支持を得られず、統治は最後まで軍に頼りきりだった。

リュシアンは結婚をめぐって兄と衝突し、王座を与えられていない。ポーリーヌもローマの貴族に嫁いだだけである。図に並ぶ八人のうち、最後まで兄の道具でいた者はいない。

ミュラにいたっては、一八一四年に義兄を裏切ってオーストリアと結んだ。ナポリの王位を守るためである。王座に据えられた者は、その王座を守ることを考えるようになる。与えたものが大きいほど、守るために離れる理由も大きくなった。

血の跡継ぎを求める

ナポレオン自身にはジョゼフィーヌとのあいだに子ができなかった。一八〇九年に離婚し、翌年オーストリアのマリー・ルイーズを迎える。ハプスブルクの皇女で、マリー・アントワネットの姪にあたる。

生まれたナポレオン二世はローマ王とされたが、帝政が倒れると母の実家に引き取られ、ライヒシュタット公として二十一歳で死んだ。父の帝国は、その子には何も渡らなかった。

継子の家から皇帝が出る

もうひとつの線が図の中ほどにある。ルイの妻オルタンスは、ジョゼフィーヌが前の夫とのあいだにもうけた娘である。ナポレオンの継子が、ナポレオンの弟に嫁いだことになる。

その子がナポレオン三世である。一八五二年に第二帝政を開いた。血の上ではナポレオンの甥だが、母をたどれば血のつながりはない。二つの帝政をつないだのは、実の子ではなく、再婚で結ばれた側の枝だった。

そして絶える

ナポレオン三世とウジェニーの子ナポレオン・ウジェーヌは、普仏戦争のあと亡命先のイギリスで育ち、一八七九年に南アフリカのズールー戦争で戦死した。二十三歳である。

ボナパルト派が担ぐべき直系は、ここで途切れた。一族を大陸じゅうに配った家が、七十年ほどで継ぐ者を失っている。

配られた兄弟の子孫は各地に残った。しかし帝位を主張できるのは、ナポレオン三世の枝だけだと決められていた。広げるだけ広げておきながら、帝位を継ぐ資格のほうは一本に絞ってあったことになる。横へ配ることと、縦を絶やさないことは、別々に手を打たなければならない問題だった。

図の読み方

この図は縦に短く、横に長い。一代のあいだに横へ最大限に広げ、縦には二代しか続かなかった家である。

兄弟を王にする配り方は、チンギス家が四人の子にウルスを与えたのと形が似ている。違うのは、モンゴルでは分けた枝がそれぞれ根を張って何百年も続いたのに対し、ボナパルトの枝は本家が倒れると同時に全部が外れたことである。配った先の土地に、家として根を下ろす時間がなかった。

もうひとつの違いは、正統の出どころである。チンギス家の枝は、チンギスの血であること自体が資格だった。ボナパルトの枝は、ナポレオンが勝っているあいだだけ王でいられた。血が資格を生むのではなく、力が血に資格を与えていたので、力が消えると血のほうも意味を失う。

図に残った縦の一本は、その意味で例外である。ナポレオン三世は伯父の名前だけを相続して皇帝になった。血ではなく名前が資格として働いた、めずらしい例だった。