鎌倉に幕府を開いたのは源頼朝だが、源氏の将軍は三代で絶えた。あとを継いだのは、頼朝の妻の実家である北条氏である。北条は将軍にならず、執権という補佐の職に座って幕府を動かした。天皇の外戚が摂政や関白に座ったのと同じ型が、相手を将軍に替えて繰り返されている。図の枝が二本に分かれ、片方だけが下へ伸びているのは、そのまま鎌倉時代の形である。
北条時政は伊豆の在庁官人で、もともと大きな家ではない。伊豆へ流されていた頼朝と、時政の娘の政子が結ばれ、一一八〇年の挙兵で時政の家は頼朝の側に立った。図の左上がその一点である。ここで政子が頼朝に嫁いでいなければ、以後の百三十年はない。
家柄では上に立てない家が、婚姻ひとつで主君の身内になる。外戚という立場の強さは、もともとの家の大きさとは関わりがない。
一一九九年に頼朝が没し、子の頼家が継いだ。頼家は御家人の合議に実権を削られ、伊豆の修禅寺で殺される。次の実朝は歌人として知られたが、一二一九年、鶴岡八幡宮で甥の公暁に討たれた。公暁は頼家の子で、父の敵として叔父を狙ったとされる。公暁もその場で討たれ、頼朝の血筋は三代で尽きた。
図で見ると、頼朝から下の枝は実朝と公暁で止まっている。そこから先へ伸びているのは、政子の弟の義時の側だけである。
北条が抜け出せたのは、家柄が高かったからではない。頼朝の没後、有力な御家人が次々に倒れている。頼家の妻の実家だった比企氏は一二〇三年に滅ぼされ、侍所の長だった和田氏は一二一三年に敗れた。三浦氏も一二四七年に滅びる。倒した側はいずれも北条であり、そのたびに空いた職を北条が押さえた。
争いのたびに、掲げられた名分は将軍家を守ることだった。将軍の外戚であることが、他の御家人を討つ理由になる。蘇我氏や藤原氏が朝廷の中で使った道具を、北条は幕府の中で使っている。
時政は一二〇三年に幕府の政所の長となり、これが執権の始まりとされる。二代は義時、三代は泰時と続く。執権は将軍を補佐する職であって、将軍そのものではない。
源氏が絶えたあとも、北条は自分が将軍になる道を選ばなかった。京から摂関家の子を迎えて将軍に立て、のちには皇族を迎えている。名目の主を上に置き、実権は執権が握る。摂政や関白が天皇を立てたまま政務を執ったのと同じ形である。主の家が入れ替わっても型は壊れないので、かえって長く続いた。
北条には源氏の名門という看板がない。伊豆の在庁官人の家が将軍になろうとすれば、なぜお前がと問われる。名目の主を立てておけば、その問いは起きない。
同じことを蘇我氏も藤原氏もしていた。位を奪えば簒奪になるが、補佐の座に留まるかぎり、形の上では主君を助けているだけである。実権と地位を切り離し、地位のほうは古い家に残しておく。北条が源氏を絶やしたあとも京から主君を迎え続けたのは、この形が要るからだった。
一二二一年、後鳥羽上皇が義時の追討を命じる院宣を出した。承久の乱である。御家人の多くは朝廷を敵に回すことをためらったが、政子が頼朝の恩を説いて引き止めたと伝えられる。幕府方は京へ攻め上って勝ち、上皇は隠岐へ流された。
乱のあと、幕府は京に六波羅探題を置いて朝廷を見張り、上皇方に付いた武士の所領を取り上げて御家人へ配った。西国にも幕府の力が及ぶようになる。以後は皇位の継承にまで幕府が口を出すようになり、のちに皇統が二つに割れたとき、その裁定を鎌倉が下すことになる。
泰時は一二三二年に御成敗式目を定めた。律令とは別に、武家の裁きの基準を文章にしたものである。北条が力で押しただけの家ではなかったことは、この一点によく出ている。
時頼、時宗の代になると、権力は執権という職よりも、北条の家督そのものへ寄っていく。この家督を得宗という。執権の職に別の者が座っていても、決めるのは得宗になった。得宗の家臣である御内人が力を持ち、御家人との間に溝ができる。幕府の中に、もう一つの主従関係ができたことになる。将軍の下に執権があり、執権の下に得宗の家がある。名目の主から数えて三段目に、実際に決める者がいた。
一二七四年と一二八一年の蒙古襲来を防いだのは時宗である。しかし戦って得た土地はなく、恩賞に出すものがない。御家人の不満はそのまま残った。一三三三年、高時の代に幕府は滅びる。時政から数えて百三十年である。
北条氏は、蘇我氏や藤原北家と同じ道を通っている。主君の家に娘を入れ、外戚として補佐の座に着く。違うのは、主君の家が絶えたあとも型だけを残し、別の家から主君を迎え続けたことである。外戚という立場は、外戚である相手がいなくなっても続けられた。