プトレマイオス朝は、アレクサンドロス大王の部将が建てたギリシア人の王朝である。ところがこの家は、三百年にわたって兄と妹、叔父と姪で結婚し続けた。マケドニア人にもギリシア人にも、そういう慣習はない。エジプトの王になるために、エジプトのやり方を採ったのである。
この記事の家系図には、夫婦を結ぶ線が引かれていない。プトレマイオス朝の結婚のほとんどが、図の中で横に並んでいる二人のあいだで結ばれたからである。
兄と妹は同じ親の下に並ぶ。その二人が夫婦になる。親子の線だけで、家族の全部が説明できてしまう。
プトレマイオス一世は、アレクサンドロスの部将としてエジプトを預かり、紀元前三〇五年に王を称した。ギリシア人の王朝の始まりである。
その子のプトレマイオス二世は、姉のアルシノエ二世と結婚した。フィラデルフォス、すなわち姉弟を愛する者という称号は、この結婚から来ている。
ギリシア人はこれを異様と受け取った。批判した詩人が処刑されたという話も伝わる。それでも王朝はこの形を選び、以後の型にした。
理由は二つある。
一つは正統性である。エジプトのファラオは神の血を引くものとされ、オシリスとイシスの兄妹婚が神話の模範だった。外から来たギリシア人の王家が、エジプト人の目に正しい王として映るには、この形をなぞるのが早い。
もう一つは財産である。王家の女子が外へ嫁げば、持参財と王位への資格が外へ出る。内側で結べば出ていかない。ハプスブルク家が領土を外へ出さないために結婚を重ねたのと、発想は同じである。違うのは、ハプスブルクが外の家の相続人と結んで広げたのに対し、プトレマイオスは外と結ばずに閉じたことだった。
血を閉じれば結束が保たれるかというと、そうはならなかった。プトレマイオス朝の歴史は内紛の連続である。
プトレマイオス六世、クレオパトラ二世、プトレマイオス八世の三人は同じ親から生まれたきょうだいで、クレオパトラ二世は兄の六世と結婚し、六世の死後は弟の八世と結婚した。その八世は、さらにクレオパトラ二世の娘であるクレオパトラ三世とも結婚している。姉と姪の両方を妻にしたことになる。
この三人は互いに軍を向け、アレクサンドリアを何度も戦場にした。近い血は、争わない理由にはならない。
プトレマイオス朝はアレクサンドリアを都とし、ギリシア語で統治した。役人も軍もギリシア人が中心で、エジプト人の言葉を学んだ王は、記録に残るかぎり最後のクレオパトラ七世だけである。
それでも神殿にはファラオの姿で刻ませ、エジプトの神々に供物を捧げた。統治はギリシア風に、正統はエジプト風に。兄妹婚はこの二重の顔のうち、エジプト側に属する装置だった。
これだけ近い結婚を重ねれば、体に影響が出てもおかしくない。だがプトレマイオス朝には、スペイン・ハプスブルクのカルロス二世のような、はっきりした記録が残っていない。
肖像や記述から、代を追うごとに肥満の傾向が強まったとする見方はある。プトレマイオス八世は腹の出た体つきを揶揄されて渾名を付けられた。とはいえ、王朝が絶えたのは血の問題ではない。三百年のあいだ、王位を継ぐ者は途切れずに生まれ続けている。
プトレマイオス朝では、王と王妃が並んで統治者として名を刻むのがふつうだった。兄妹婚は、王位を二人で持つ形とも結びついている。
そのため女性の権力が大きい。クレオパトラという名の王妃たちは、飾りではなく統治者として動いた。クレオパトラ二世は弟に対して単独で王位を主張し、数年にわたって国を二分している。
クレオパトラ七世は、プトレマイオス十二世の娘である。慣習どおり、弟のプトレマイオス十三世、続いてその弟と、形式のうえで結婚した。
だが彼女が実際に結んだ相手は、家の外にいた。カエサルとのあいだにカエサリオンを生み、アントニウスとのあいだに三人の子をもうけている。三百年閉じてきた血を、最後の代でローマへ向けて開いたことになる。
王朝の存続をローマとの関係に賭けたわけである。紀元前三〇年、アクティウムの海戦のあとにクレオパトラは自殺し、カエサリオンは殺された。エジプトはローマの属州になる。
兄妹婚は三百年もった。正統性の演出としては成功している。エジプト人はこの王朝をファラオの家として受け入れた。
だが外と結ばないということは、外に味方を作らないということでもあった。プトレマイオス朝が滅びたのは、血が細ったからではない。外の勢力と手を組む方法を、婚姻以外に持っていなかったからである。最後のクレオパトラだけが外へ手を伸ばし、それも間に合わなかった。