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カロリング朝の分割:ヴェルダン条約が引いた三つの線

八四三年のヴェルダン条約で、カール大帝が築いた帝国が三つに分かれた。分けたのは戦争の結果ではなく相続である。フランク人には、父の土地を息子たちで分ける慣習があった。帝国もその対象だった。このとき引かれた線が、のちのフランス、ドイツ、イタリアの原型になる。

分けるのが当たり前だった

ローマ帝国は、分けられない国家という観念を持っていた。フランクの王国はそうではない。王国は王が持つ土地の集まりであり、私財は息子で分けるものだった。

メロヴィング朝は何度も分割と再統合を繰り返している。カロリング朝の始祖であるピピン三世が七六八年に没したときも、王国は二人の息子で分けられた。片方が三年後に死んだので、残った一人にまとまっただけである。その一人がカール大帝だった。

カール大帝が分けずに済んだ理由

カール大帝も、生前に帝国を息子たちで分ける計画を作っている。八〇六年の分国令で、三人の息子への配分を定めた。

ところが若年王シャルルイタリア王ピピンは、父より先に死んだ。八一四年に残っていたのは敬虔帝ルートヴィヒだけである。帝国が一つのまま次の代へ渡ったのは、制度の力ではなく偶然だった。

一体を保とうとして壊れる

敬虔帝ルートヴィヒは八一七年に帝国整序令を出した。長男のロタール一世を共治帝とし、帝国の一体性を保つ仕組みである。弟たちには従属する王国を与えるだけにした。

ところが八二三年、後妻とのあいだに禿頭王シャルルが生まれた。父は末子にも分け前を用意しようとし、そのたびに取り決めが書き換えられる。兄たちは自分の取り分が削られることに反発した。八三三年には、息子たちが軍を集めて父を廃位するところまで行っている。

一体性を保つ取り決めが、子が一人増えるたびに崩れた。分割相続の慣習は、法令で上書きできるものではなかった。

フォントノワとストラスブール

八四〇年に父が没すると、ロタール一世は帝国全体の支配を主張した。八四一年のフォントノワの戦いで、ドイツ人王ルートヴィヒと禿頭王シャルルの連合がこれを破る。

翌八四二年、勝った二人はストラスブールで同盟を誓った。誓いの言葉は、それぞれの兵に通じるように、古フランス語と古高ドイツ語で読み上げられている。のちのフランス語とドイツ語が、記録の上ではじめて別の言語として現れた場面である。領土が分かれる前に、言葉のほうが先に分かれていた。

八四三年

ヴェルダン条約の内容は単純である。

  • ロタール一世 — 中部の細長い帯とイタリア、それに皇帝の称号
  • ドイツ人王ルートヴィヒ — 東フランク王国
  • 禿頭王シャルル — 西フランク王国

分け方は、三人の力関係と、それぞれがすでに押さえていた土地でほぼ決まっている。民族や言語で分けたのではない。皇帝の称号は長兄に残ったが、実質は三つの独立した王国だった。

中の一本が消える

八五五年にロタール一世が没すると、中部の領土はさらに三人の子で分けられた。イタリア王ルートヴィヒロタール二世プロヴァンス王シャルルである。

ロタール二世が嗣子を残さずに死ぬと、その領地は八七〇年のメルセン条約で東西の王国に割られた。この地はロタールの国という意味でロタリンギアと呼ばれ、のちのロレーヌになる。千年にわたって独仏が奪い合う土地は、このとき生まれている。

皇帝の称号だけが残る

ヴェルダン条約で皇帝の称号を受け取ったのはロタール一世である。だが称号に伴う実権はほとんどなかった。三つの王国はほぼ対等で、長兄が上に立つ形にはならなかった。

皇帝号はその後、中部の王国が細っていくと東フランクへ移る。九六二年にオットー一世が戴冠し、のちに神聖ローマ帝国と呼ばれる枠組みになった。カール大帝がローマ皇帝として戴冠したときの、一つの帝国という理念だけが名として残り、実体は分かれたままだった。

分けた結果

分けるほど一つ一つの王国は小さくなり、外からの攻撃に弱くなる。九世紀後半にノルマン人が河をさかのぼって襲来したとき、分かれた王国は個別に対処するしかなかった。防いだのは地方の伯や公で、そのまま独立の勢力になっていく。封建制はこの過程で固まった。

カロリング家そのものは長く続かない。東フランクでは九一一年に、西フランクでは九八七年に男系が絶えた。西フランクではユーグ・カペーが選ばれ、カペー朝が始まる。

線だけが残る

王家は短命だったが、八四三年に引かれた線は残った。東フランクはドイツへ、西フランクはフランスへ、中部はイタリアとロタリンギアへと姿を変え、その枠組みが千年以上続いている。

兄弟で土地を分けるという、家の中の作法だった。それがそのまま国境になった。ヨーロッパの地図は、一つの家の相続の書類として書き始められている。