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くじ引き将軍:足利義持の弟四人から義教が選ばれた

一四二八年正月、四代将軍の足利義持は、跡継ぎを決めないまま没した。重臣たちは石清水八幡宮の神前でくじを引き、義持の弟四人の中から一人を選んだ。寺に入っていた義円、のちの六代将軍足利義教である。くじで選ばれた将軍は、兄弟と一族を次々に除き、最後は家臣の屋敷で殺された。

寺に入れられた子たち

三代将軍の足利義満は、南北朝の合一を果たし、明から日本国王に封じられた。義満には多くの男子がいた。家を継ぐ者のほかは、幼いうちに大きな寺へ入れられた。天台宗の青蓮院や梶井、真言宗の大覚寺、禅宗の相国寺などで僧となり、家督からは切り離された。跡継ぎの争いを避けるために、公家や武家で広く行われたやり方である。

義満は一三九四年、九歳の長男の義持に将軍職を譲ったが、実権は手放さなかった。晩年にかわいがったのは、義持の異母弟の足利義嗣である。一四〇八年、義嗣は内裏で、親王に準じた形で元服した。その直後に義満は急死する。

兄が弟を除く

義満が没すると、義持は父の政治を改めた。朝廷が義満に太上天皇の号を贈ろうとしたのを断り、明との交易もやめている。父が住んだ北山の邸も、金閣などを残して寺に改めた。

一四一六年、関東で上杉禅秀の乱が起きると、義嗣はこれに通じた疑いをかけられて京を逃れ、捕らえられた。一四一八年、義持の命で殺されている。

子に先立たれる

義持の子の足利義量は、一四二三年に五代将軍となった。ところが二年後、十九歳で没する。義量は酒を好み、義持が近臣に、義量に酒を勧めないと誓わせたという話も残る。義持にほかの男子はなく、新しい将軍を立てないまま、自分で政治を続けた。将軍の座は空いたままだった。

くじ

一四二八年正月、義持は重い病にかかった。重臣たちが跡継ぎを決めるよう求めても、義持は名を挙げなかった。自分が決めても、大名たちが従わなければ意味がない、と言ったと伝えられる。

そこで管領の畠山満家や、義持に近い僧の三宝院満済らが、くじで決めることにした。義持もこれを認めた。候補は、寺に入っていた義持の弟四人で、青蓮院の義円、梶井義承、大覚寺義昭、相国寺の虎山永隆である。義円は天台座主も務めた僧だった。石清水八幡宮の神前で引いたくじは、義持が没したあとに開かれ、義円の名が出た。神が選んだ将軍ということになる。

寺から出た将軍

義円は寺を出て俗人に戻り、義宣、のちに義教と名のった。将軍になったのは翌一四二九年である。僧として剃っていた髪が伸び、元服の儀を整えるのを待ったためという。

義教は、兄の義持が改めた政治を、父の義満の形へ戻そうとした。明との交易を再び始め、守護大名の家督にも介入した。逆らう者は厳しく罰し、公家も僧も処罰を恐れた。その様子は、同じ時代の日記に「万人恐怖」と書かれている。

一族を除く

鎌倉公方の足利持氏は、義持の跡を継ぐのは自分だと考えていた。くじで義教が選ばれると、これに従わず、新しい元号も使わなかった。一四三八年、義教は兵を送って持氏を攻め、翌年、持氏は自害した。永享の乱である。持氏の子の春王丸と安王丸は、下総の結城氏朝に迎えられて兵を挙げたが、一四四一年に敗れ、京へ送られる途中で殺された。結城合戦である。

弟の大覚寺義昭は、一四三七年に京を逃れた。義教に背く企てがあると疑われたためである。義昭は日向まで落ちのびたが、一四四一年、義教の命を受けた島津氏に討たれた。くじの候補だった兄弟の一人を、くじで選ばれた将軍が殺したことになる。

嘉吉の乱

一四四一年六月、播磨などの守護の赤松満祐は、関東の戦いに勝った祝いとして義教を屋敷に招いた。猿楽を見ていた義教は、その席で赤松の家臣に斬られた。義教がかわいがっていた一族の赤松貞村に、満祐の領地が与えられるという噂があり、満祐はそれを恐れていたとされる。将軍が家臣の屋敷で殺されたこの事件を、嘉吉の乱という。満祐は播磨へ帰ったが、その年のうちに山名持豊らの軍に攻められて自害した。

そのあと

跡を継いだのは、八歳の長男の足利義勝だった。義勝は将軍になった翌年に十歳で没し、弟の足利義政が家督を継いで、一四四九年に将軍となった。もう一人の弟の足利政知は、のちに関東へ送られて堀越公方となる。弟の足利義視は、のちに義政の跡継ぎとされ、応仁の乱で争う一方の側に立った。

くじが選んだもの

くじは、人ではなく神が選ぶ方法として用いられた。どの大名も結果に異を唱えにくい。ただし義教は、特定の大名に推されて将軍になったわけではなかった。義教は恐れられることで将軍の座を保とうとしたが、最後は家臣に殺された。

義満が子を寺に入れて跡継ぎの争いを避けようとした家で、寺の中から将軍が出て、その将軍が兄弟を殺した。家系図に並ぶ僧の名は、跡継ぎの候補から外したはずの子たちである。