一五五三年七月、十代の少女がイングランドの女王として宣言され、九日後に退けられた。ジェーン・グレイである。女王に立てられた理由も、退けられた理由も、家系図のどこにいたかで説明がつく。翌年、ジェーンは反逆者として処刑された。
ヘンリー七世とエリザベス・オブ・ヨークの子のうち、王位を継いだのはヘンリー八世である。ヘンリー八世は一五四四年の王位継承法と遺言で、自分のあとを継ぐ順番を定めた。まず息子のエドワード、次に娘のメアリー、その次にエリザベスである。三人とも子を残さなかった場合は、妹メアリー・テューダーの血筋が継ぐ。姉マーガレット・テューダーが嫁いだスコットランド王ジェームズ四世の家は、この順位から外された。
妹メアリーはフランス王ルイ十二世に嫁ぎ、王の死後にチャールズ・ブランドンと再婚していた。その娘フランシス・ブランドンは、ドーセット侯ヘンリー・グレイに嫁ぐ。夫妻の長女がジェーンで、ヘンリー七世から数えると曾孫にあたる。
一五四七年に九歳で即位したエドワード六世は、熱心なプロテスタントとして育った。一五五三年、十五歳の王は重い病に倒れる。このまま王が死ねば、カトリックの姉メアリーが女王になる。
王と、政権を握っていたノーサンバランド公ジョン・ダドリーは、継承の順位を書き換える書き付けを作った。メアリーとエリザベスは、母の結婚が無効とされたことを理由に外される。書き付けははじめ、王位を女性には渡さず、フランシスやジェーンがこれから産む男子に渡すとしていた。王の死が近づくと、文言は「ジェーンとその男子」に直された。母のフランシスではなく、娘のジェーンが女王になる定めである。
同じ年の五月、ジェーンはノーサンバランド公の息子ギルフォード・ダドリーと結婚した。ノーサンバランド公は、のちに女王となる娘を自分の家に迎えたことになる。
七月六日、エドワード六世が没した。ジェーンは数日後に女王となることを告げられ、七月十日にロンドンで女王と宣言された。本人は即位を望んでいなかったと伝えられる。夫のギルフォードを王にすることも、ジェーンは拒んだという。
メアリーは捕らえられる前にロンドンを離れ、東部のフラムリンガム城で兵を集めた。ヘンリー八世の娘という正統は、亡き王の書き付けよりも重く見られた。地方の貴族は宗派を問わず、次々にメアリーの側へ付いた。
ノーサンバランド公が軍を率いて都を出ると、残った枢密院はメアリーの側へ移った。七月十九日、ロンドンでメアリーの即位が宣言され、ジェーンはそのままロンドン塔に留め置かれた。女王と宣言されてから九日目のことである。
メアリー一世は、ジェーンをすぐには殺さなかった。ノーサンバランド公は八月に処刑されたが、ジェーンと夫は裁判で死刑を言い渡されたまま、塔の中で生かされていた。
事態を変えたのは、一五五四年初めのワイアットの反乱である。女王がスペインのフェリペ王子と結婚することに反対して起きた反乱で、ジェーンの父ヘンリー・グレイもこれに加わった。反乱が鎮められると、ジェーンは生かしておけばまた担がれる者として、二月十二日に処刑された。夫も同じ日に処刑され、父も十日あまりのちに処刑された。
ジェーンにはキャサリン・グレイとメアリー・グレイという二人の妹がいた。ヘンリー八世の定めに従えば、エリザベス一世の次に王位に近いのは、この姉妹の側である。子を持たない女王にとって、二人は最も警戒すべき親族になった。
キャサリンは女王の許しを得ずに、ハートフォード伯エドワード・シーモアと結婚した。発覚すると夫妻はロンドン塔に入れられ、塔の中で生まれた二人の息子は、嫡出と認められなかった。キャサリンは一五六八年、監視の下に置かれたまま没している。メアリーも許しを得ずに結婚し、夫と引き離されて、監視の下で生涯を終えた。
キャサリンの息子たちは、嫡出を疑われたまま王位の候補にはならなかった。一六〇三年にエリザベス一世が没すると、王位はヘンリー八世の遺言どおりには動かず、スコットランド王ジェームズ六世へ渡る。マーガレット・テューダーの子ジェームズ五世、その娘メアリー・ステュアートをへた、遺言が外したはずの血筋である。
図の中で、ジェーンは王の三人の子より一つ下の世代にいる。それでも王位に近かったのは、ヘンリー八世が姉の血筋を外し、エドワード六世が二人の姉とジェーンの母フランシスを外したからである。どれも、本人が選んだことではない。祖母の再婚、母の嫁ぎ先、義父の企てた書き換えが重なって、十代の少女が九日だけ女王となり、命を落とした。