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燕山君と中宗反正:生母の死を知った王が廃され、異母弟が立った

一五〇六年、朝鮮王朝の第十代の王の燕山君は、臣下に廃されて島へ流された。代わりに立ったのは異母弟の中宗である。燕山君の生母は、燕山君が幼いころに王妃の位を追われ、毒を賜って死んでいた。そのいきさつを知った王が、関わった者を次々に罰したことが、廃位につながっている。

世祖の孫が二人

世祖は、甥の端宗から王位を奪って即位した王である。その長男の懿敬世子は、父が王になって二年後に、二十歳で没した。世子の位は弟の睿宗に移り、睿宗が世祖の跡を継いだ。ところが睿宗も在位一年あまりで没する。子の斉安大君はまだ四歳だった。

世祖の妃の貞熹王后が次の王に選んだのは、懿敬世子の次男の成宗だった。十三歳である。兄の月山大君も、睿宗の子も退けられた。成宗の妻の父が、世祖の重臣の韓明澮だったことが大きかったとされる。韓明澮は睿宗にも娘を嫁がせていた。王になれなかった斉安大君は、疑いを避けるために、わざと愚かにふるまったという話が伝わる。

成宗が若いあいだは、貞熹王后が政治を見た。成宗はのちに、王にならずに没した父の懿敬世子に徳宗の号を贈った。成宗は法典の経国大典を仕上げ、学者を重んじて官に取り立てている。母の仁粋大妃も、女性の心得を説いた内訓を著したことで知られる。

王妃の廃位

成宗の最初の王妃は韓明澮の娘で、子のないまま若くして没した。次に王妃となった尹氏が、一四七六年に燕山君を生んだ。ところが尹氏は、王の寵愛を受ける側室たちと激しく争い、王の顔に傷をつけたとも伝えられる。王の母の仁粋大妃もこれを強く責め、一四七九年、尹氏は王妃の位を追われた。一四八二年には毒を賜って死んでいる。成宗は、尹氏のことを百年のあいだ口にしてはならないと言い残したという。

次の王妃の貞顕王后が、幼い燕山君を育てた。一四八八年には、この王妃が生んだ中宗が生まれている。燕山君と中宗は、母の違う兄弟である。

母の死を知る

一四九四年に成宗が没し、十九歳の燕山君が王となった。一四九八年には、学者の官僚たちを多く処罰している。史官が記録に残した文章が、曾祖父の世祖が王位を奪ったことを批判したものとされたのがきっかけだった。記録を残した史官は処刑され、文章を書いた学者はすでに死んでいたが、墓をあばかれた。戊午士禍である。

一五〇四年、燕山君は生母の廃位と死のいきさつを詳しく知った。臣下の任士洪が王に伝えたとされ、母が死ぬときに吐いた血の染みた衣を見せられたという話も残る。母の廃位に関わった者は、すでに死んでいた者まで罪に問われ、韓明澮も墓をあばかれた。生母を責めた成宗の側室二人は殺された。祖母の仁粋大妃も、燕山君に激しく詰め寄られたあと、ほどなく没したと伝えられる。甲子士禍である。

乱れた政治

燕山君は諫める官僚を退け、学問の場だった成均館を遊びの場に変えた。王を批判する文書がハングルで書かれて出回ると、ハングルを使うことまで禁じたという。各地から女性を集め、宮中の宴に費用を注いだ。

中宗反正

一五〇六年九月、朴元宗らが兵を挙げて燕山君を廃し、異母弟の晋城大君を王に迎えた。中宗である。廃位は、中宗の母の貞顕王后の命という形をとった。宮殿の衛兵や臣下の多くは逃げ去り、燕山君を守る者はほとんどいなかったという。王を廃して正しい道に戻すという意味で、これを中宗反正という。

燕山君は王ではなく王子の扱いに落とされ、江華島の近くの喬桐島へ流されて、その年のうちに三十一歳で没した。燕山君の子たちも殺されている。燕山君の君は、王の庶子などに与える称号である。王として扱われなかったので、燕山君には死後の廟号がない。その治世の記録も、ほかの王のように実録とは呼ばれず、燕山君日記という名で残っている。

七日の王妃

中宗の妻の端敬王后は、慎守勤の娘である。慎守勤は、燕山君の妃の居昌郡夫人の兄で、兵を挙げた側に加わらず、殺された。つまり中宗の妃は、燕山君の妃の姪にあたる。王妃の一族が仇を討つことを恐れた功臣たちは、王妃を退けるよう求めた。中宗はこれに従い、王妃は即位から七日で宮中を去った。中宗はこのあと三十八年在位したが、退けた妃を王妃に戻すことはなかった。慎氏が王妃の位に戻されたのは、二百年以上のちの一七三九年である。中宗の跡は、二度目の王妃の子の仁宗と、三度目の王妃の子の明宗が継いでいる。

家系図で見ると

家系図には、慎氏が二人いる。燕山君の妃と、中宗の最初の妃である。叔母と姪が兄弟の妃になっていたため、兄が廃されると、弟の妃も宮中に置いておけなくなった。

成宗が王になったときに退けられた月山大君と斉安大君も、図に並んでいる。王位はそのたびに、有力な臣下の支えを誰が持っているかで決まった。燕山君を廃した功臣たちが中宗の妃まで退けさせたのも、同じ考え方による。