一七六二年の夏、朝鮮王朝の王英祖は、世子である息子に米びつへ入るよう命じた。世子はそのなかで八日を過ごし、息を引き取った。のちに思悼世子と呼ばれる人である。王位は世子の子の正祖へ渡ったが、そのためには、正祖を死んだ伯父の跡継ぎにするという手続きが要った。
英祖は第十九代の王粛宗の子で、母の淑嬪崔氏は、宮中の下働きから身を起こした人である。異母兄の景宗の母は、粛宗の寵愛を受けたのちに死を賜った禧嬪張氏である。宮廷では、景宗を支えた少論と、英祖を推した老論という二つの派が争っていた。景宗は在位四年で、子を残さずに没した。英祖は一七二四年に王位を継いだ。
景宗の死には、英祖が関わったという噂がつきまとった。一七二八年には、英祖は粛宗の子ではないと唱える者まで現れ、李麟佐の乱と呼ばれる反乱が起きている。母の身分と兄の死は、英祖が王としての正統を疑われる理由になり続けた。英祖が跡継ぎに厳しかったのは、この不安と無関係ではないと考えられている。
英祖の長男孝章世子は、一七二八年に幼くして没した。次の男子が生まれたのは一七三五年、英祖が四十代に入ってからである。母は暎嬪李氏で、この男子は翌年には世子に立てられた。
世子は一七四四年、洪鳳漢の娘と結婚した。世子と同じ年に生まれた、のちの恵慶宮洪氏である。
英祖は世子に厳しかった。学問の進み具合を問いただし、臣下の前で叱った。一七四九年からは世子に政務を代わりに執らせたが、世子の判断を認めることは少なかった。
世子の妃恵慶宮洪氏は、のちに『閑中録』という回想を書き残した。六十歳を過ぎてから書き継いだものである。それによれば、世子は父を恐れるあまり心を病み、衣服を身に着けることを怖がるようになった。着替えのたびに何着も替えさせ、取り乱したという。やがて、宦官や女官を殺すようになる。一七六一年には、王に知らせないまま平壌まで出かけている。
一七六二年、世子の生母の暎嬪李氏が、世子の行いを英祖に訴えた。英祖は世子を呼び出して庶人に落とし、米びつに入るよう命じた。幼い世孫は祖父にすがって父の命乞いをしたが、聞き入れられなかったと伝えられる。
世子を罪人として処刑すれば、その罪は妻や子にも及ぶ。米びつに閉じ込めて死なせる形を取ったのは、世孫の正祖を罪人の子にしないためだったとも言われる。米びつのふたは閉ざされ、世子は八日後に没した。
英祖はすぐに世子の位を戻し、「思い、悼む」という意味の思悼という諡を贈った。臣下はのちに、世子に同情する時派と、王の処分を正しいとする僻派とに分かれていく。
正祖は一七五九年に世孫に立てられていたが、このとき、まだ十歳に満たない。罪を得て死んだ者の子として、王位を継がせるわけにはいかなかった。英祖は一七六四年、正祖を亡き孝章世子の子とする形を取る。正祖は、父ではなく伯父の跡継ぎとして王位を継ぐことになった。
一七七六年、英祖が五十二年の在位ののちに没し、正祖が即位した。五十二年は、朝鮮王朝の王の在位で最も長い。即位してすぐ、正祖は臣下を前に「わたしは思悼世子の子である」と述べた。形の上では伯父の子でも、血筋の上では思悼世子の子であることを、王みずから明らかにしたのである。
正祖は父の号を荘献世子と改め、墓を水原へ移した。その近くには、城郭をめぐらせた町の華城を築いている。城壁は五キロメートルあまりにわたり、一九九七年には世界遺産に登録された。たびたび墓参りに出かけ、一七九五年には母の恵慶宮の還暦の祝いも華城で開いた。
父の死に関わった臣下の一部は退けられた。だが正祖は、祖父の英祖が下した処分そのものを覆すことはしなかった。それをすれば、祖父の跡を継いだ自分の王位の正統も問われるからだと考えられる。王位は、正祖の子の純祖へ受け継がれた。恵慶宮は夫の死後も宮中に残り、一八一六年に没するまで、息子と孫の治世を見届けている。
図では、思悼世子は英祖と正祖のあいだにいる。王にはならなかったが、王位はこの人を通って孫の代へ伝わった。英祖は、自分の母の身分をめぐる疑いに苦しみながら、息子を死なせてまで跡継ぎの正統を守ろうとした。正祖は、その正統を受け継いだうえで、死んだ父の子であることを名乗った。
正祖の血筋が絶えたあとも、王は思悼世子のほかの子の家から迎えられ、朝鮮王朝の最後の王まで、みなこの世子の家系から出た。一八九九年、高宗は思悼世子に王の位を贈り、荘祖とした。米びつで死んだ世子は、百三十七年ののちに王として祀られたことになる。