記事

エカチェリーナ二世:夫を廃して帝位についたドイツの侯女

エカチェリーナ二世は、ロシアの皇帝家の血を引かない女帝である。生まれはドイツの小さな侯国の家で、名はゾフィーといった。皇太子の妃としてロシアへ迎えられ、一七六二年、即位して半年の夫を退けて、みずから帝位に就いた。三十四年の治世のあと、帝位は夫とのあいだの息子へ渡っている。

ホルシュタイン家とのつながり

ゾフィーは一七二九年、プロイセン領のシュテッティンで生まれた。父はアンハルト=ツェルプスト家のクリスティアン・アウグストで、プロイセン王に仕える軍人であった。母ヨハンナ・エリーザベトは、ホルシュタイン=ゴットルプ家の出である。母の弟アドルフ・フレドリクは、のちにスウェーデン王となっている。

このホルシュタイン家が、ロシアの帝位とつながっていた。ピョートル一世と皇后エカチェリーナ一世の娘アンナ・ペトロヴナはホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒに嫁ぎ、一七二八年に男子を産んで、まもなく没した。この子がのちのピョートル三世である。ゾフィーの母とピョートルの父はいとこどうしで、ゾフィーとピョートルははとこにあたる。

女帝エリザヴェータの選択

ピョートル一世のもう一人の娘エリザヴェータは、一七四一年に近衛連隊の力で帝位に就いた。子のない女帝は、姉の遺した息子ピョートルをホルシュタインから呼び寄せ、跡継ぎに定める。

その妃に選ばれたのがゾフィーであった。エリザヴェータは若いころ、ゾフィーの母の兄と婚約し、婚礼の前に死なれている。母方の家は、女帝にとってなじみのある家であった。一七四四年、ゾフィーは母とともにロシアへ渡り、正教に改宗してエカチェリーナ・アレクセーエヴナと名を改めた。翌一七四五年、ピョートルと結婚する。

うまくいかない結婚

二人の仲は良くなかった。ピョートルはドイツで育ち、プロイセン王フリードリヒ二世を崇め、ロシアの習わしを軽んじた。エカチェリーナはロシア語を学び、正教の儀礼を守り、宮廷の人々との交わりを広げた。

一七五四年、ようやく男子のパーヴェルが生まれる。だがエリザヴェータは生まれた子をすぐに引き取り、自分の手元で育てた。夫婦の仲が冷えていたことから、パーヴェルの父は別の男だという噂もあったが、確かめる手立てはない。

半年の皇帝

一七六一年の暮れにエリザヴェータが没し、ピョートル三世が即位した。ロシアは七年戦争でプロイセンを追い詰めていたが、新しい皇帝はすぐにフリードリヒ二世と講和し、占領した土地を返してしまう。さらに、故郷ホルシュタインのためにデンマークと戦う準備を始めた。

近衛連隊にはプロイセン風の軍服と訓練を押しつけ、正教会の財産にも手を付けようとした。軍も教会も、皇帝から離れていった。

一七六二年六月

一七六二年六月二十八日、エカチェリーナはペテルブルクの近衛連隊の兵舎に姿を見せた。将校のグリゴリー・オルロフとその兄弟が、あらかじめ兵をまとめていた。兵はエカチェリーナに忠誠を誓い、カザン聖堂で女帝としての即位が宣言される。

ピョートル三世は抵抗をあきらめ、退位の書面に署名した。都の郊外のロプシャに移されて数日後、前の皇帝は死んだ。公には病死とされたが、見張っていたアレクセイ・オルロフらに殺されたと考えられている。

帝位は誰のものか

系図の上で帝位を継ぐべきだったのは、ピョートル三世の子のパーヴェルである。エカチェリーナは幼い息子の摂政になるのではなく、自分が皇帝となった。パーヴェルが成人してからも、母は位を譲らなかった。

一七九六年にエカチェリーナが没すると、四十二歳のパーヴェル一世が即位した。翌年、パーヴェルは男子が順に帝位を継ぐと定めた継承法を出す。夫を退けて即位した母のような皇帝が、二度と現れないようにする法であった。

祖母が育てた孫

エカチェリーナは、パーヴェルの長男アレクサンドルが生まれると、すぐに自分の手元へ引き取って育てた。かつてエリザヴェータが、生まれたばかりのパーヴェルを母から引き離したのと同じやり方である。女帝は晩年、パーヴェルではなく孫のアレクサンドルに位を譲ることも考えていたと伝えられるが、定めを残さないまま没した。

パーヴェル一世の治世は五年足らずで終わる。一八〇一年、宮廷の貴族と将校たちの企てで皇帝は殺され、アレクサンドル一世が即位した。

家系図で見ると

図の中で、エカチェリーナ二世はピョートル三世の妃として横に並ぶだけである。ピョートル一世の血筋は、夫ピョートル三世を通じて息子パーヴェルへ伝わった。パーヴェルの子のアレクサンドル一世とニコライ一世が続いて帝位に就き、以後のロシア皇帝はみなこの線から出ている。女帝自身の血筋には、ロシアの帝位を継ぐ資格がなかった。それでも即位できたのは、近衛連隊と宮廷がそれを選んだからである。