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オルレアン家:ルイ十三世の次男の子孫が七月王政の王になった

一八三〇年の七月革命のあと、フランスの王位に就いたのはブルボン家の本家ではなく、分家にあたるオルレアン家のルイ=フィリップであった。オルレアン家は、ルイ十三世の次男フィリップに始まる。本家と分家は、同じ数の世代を重ねて並んで続いた。

王の弟の家

ルイ十三世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだには、二人の男子が育った。兄がルイ十四世、弟がフィリップである。フィリップはオルレアン公となり、宮廷では「ムッシュー」と呼ばれた。

兄王は、弟が政治や軍事で名を上げることを好まなかった。フィリップは一六七七年のカッセルの戦いで勝ったが、その後は軍を任されていない。オルレアン家は、王の弟の家として財産と称号を持ちながら、政治からは遠ざけられて始まった。

二度の結婚

フィリップの最初の妻は、イングランド王チャールズ一世の娘ヘンリエッタであった。二度目の妻はプファルツ選帝侯の娘エリザベート・シャルロットで、この妻から生まれたのがフィリップ二世である。

フィリップ二世は、ルイ十四世と愛人モンテスパン夫人とのあいだの娘フランソワーズ・マリーと結婚させられた。王が認知した庶出の娘である。母のエリザベート・シャルロットはこの縁組をひどく嫌い、承諾したことを告げた息子の頬を打ったと伝えられる。

この結婚によって、オルレアン家はルイ十三世の男系であるうえに、女系ではルイ十四世の血も引くことになった。

摂政

一七一五年、ルイ十四世が没し、五歳の曾孫ルイ十五世が即位した。摂政となったのはフィリップ二世である。スペイン王となった王の孫はフランスの王位を放棄していたから、オルレアン公は王位に最も近い成人の王族であった。

摂政の時代は八年続いた。フィリップ二世は一七二三年に没し、オルレアン家はふたたび王の親族の一つに戻る。そのあとは、フィリップ二世の子のルイ、孫のルイ・フィリップと、公位が父から子へ受け継がれた。

国王の死刑に賛成した公爵

五代目のオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフは、革命が始まると自由主義の側に立った。一七九二年に王政が廃されると、名を「フィリップ・エガリテ」(平等)と改め、国民公会の議員となる。翌一七九三年一月には、同じブルボン家のルイ十六世の死刑に賛成の票を投じた。

それでも身は守れなかった。同じ年の四月、長男のルイ=フィリップが将軍デュムーリエとともにオーストリア軍の側へ逃れると、父は捕らえられ、十一月に処刑された。

エガリテの妻ルイーズ・マリー・アデライードは、ルイ十四世とモンテスパン夫人の子トゥールーズ伯の孫娘である。ルイ=フィリップは、父方でも母方でも、ルイ十四世の庶出の子の血を引いていた。

フランス人の王

ルイ=フィリップは二十年あまりを国外で過ごした。ナポレオンが退いて王政が戻ると帰国し、ルイ十八世とシャルル十世の治世のあいだ、オルレアン公として暮らした。

一八三〇年七月、シャルル十世が出版の自由を押さえ、議会を解散する勅令を出すと、パリで三日間の市街戦が起きた。シャルル十世は退位して国を離れる。議会が王に迎えたのがルイ=フィリップであった。称号は「フランスの王」ではなく「フランス人の王」とされた。王の位は神から授かるものではなく、国民から託されるものだという考えを、称号で示したのである。

本家を差し置いて

本家は、ルイ十四世から大王太子ルイ、ブルゴーニュ公ルイをへてルイ十五世へ、さらに王太子ルイをへて、ルイ十六世、ルイ十八世、シャルル十世の三兄弟へ続いていた。シャルル十世の子ベリー公シャルルは一八二〇年に暗殺され、その死後に生まれた男子がシャンボール伯アンリである。一八三〇年の革命のとき、本家にはこの九歳の男子が残っていた。シャルル十世は孫に位を譲るつもりで退いたが、革命を起こした側は本家の王を受け入れなかった。

系図の上では、本家の子を差し置いて分家が継いだことになる。それができたのは、オルレアン家が革命の側に立った過去を持っていたからであった。国王の死刑に投じた一票は、王党派には許せない記憶であり、自由主義者には信用の裏付けであった。

一八四八年と二つの王党派

ルイ=フィリップの長男フェルディナンは、一八四二年に馬車の事故で没した。一八四八年二月、パリでふたたび革命が起きると、王は孫のパリ伯フィリップに位を譲って国を離れた。だが譲位は認められず、共和政が宣言される。

その後、フランスの王党派は二つに分かれた。本家のシャンボール伯を推す正統派と、オルレアン家を推すオルレアン派である。シャンボール伯は一八八三年に子を残さずに没し、ルイ十五世の男系の子孫はここで絶えた。正統派の一部はスペインのブルボン家を推したが、多くはオルレアン家の側へ移った。

家系図で見ると

図の左にはルイ十四世からシャンボール伯までの本家が、右にはフィリップからパリ伯までのオルレアン家が並ぶ。ルイ十三世から数えると、シャルル十世とルイ=フィリップは同じ六代あと、シャンボール伯とパリ伯は同じ八代あとにあたる。二つの家は、ほぼ同じ年月で同じ数の世代を重ねていた。王位が本家から分家へ移ったのは、血筋の近さではなく、革命に対してどこに立ったかによる。