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光海君と仁祖反正:異母弟を死なせた王が廃され、甥が王位に就いた

一六二三年、西人と呼ばれる党派の官僚たちが兵を挙げ、朝鮮王朝の王光海君を廃した。代わって王になったのは、光海君の甥にあたる仁祖である。この出来事を仁祖反正という。反正とは、乱れたものを正しい状態に戻すという意味である。西人は、光海君が異母弟を死なせ、父の正妃を閉じ込めたことを、王を廃する理由に挙げた。

側室の子の王

光海君は、第十四代の王宣祖の次男である。母は側室の恭嬪金氏で、同じ母から生まれた兄に臨海君がいた。宣祖の正妃の懿仁王后は、子を産まなかった。

宣祖自身も、側室の子の家系から出た王である。父の徳興君は、第十一代の王中宗が側室とのあいだにもうけた子だった。第十三代の明宗が跡継ぎを残さずに没したため、明宗の甥にあたる宣祖が王に迎えられた。

戦乱のなかの世子

一五九二年、豊臣秀吉の軍が朝鮮に攻め込んだ。朝鮮では壬辰倭乱、日本では文禄の役と呼ぶ。宣祖は都の漢城を離れて北へ逃れることになり、その慌ただしいなかで光海君が世子に立てられた。兄の臨海君は気性が荒いとされ、選ばれなかった。

光海君は父と別れて朝廷の一部を率い、各地を回って兵と兵糧を集めた。臨海君のほうは、咸鏡道で加藤清正の軍に捕らえられている。

明が認めなかった世子

朝鮮の王と世子は、明の皇帝から冊封を受け、その地位を認められることになっていた。朝鮮は光海君を世子に冊封するよう何度も願い出たが、明は認めなかった。長男の臨海君がいるのに次男を立てるのは、順序に反するというのである。明でも同じころ、万暦帝が長男を皇太子に立てるのを渋り、官僚たちと争っていた。

嫡子の誕生

一六〇〇年に懿仁王后が没すると、宣祖は一六〇二年に仁穆王后を新しい正妃に迎えた。金悌男の娘で、光海君より九つ年下である。一六〇六年、仁穆王后は男子を産んだ。宣祖の男子のなかでただ一人の正妃の子、永昌大君である。王の子のうち、正妃が産んだ男子は大君、側室が産んだ男子は君と呼ばれた。

宮廷には、永昌大君を推す者も現れた。だが宣祖は一六〇八年に没し、王位は世子の光海君が継いだ。このとき永昌大君は、生まれて二年ほどだった。

戦後の立て直し

光海君は、戦乱で荒れた国の立て直しに取り組んだ。即位の年には、京畿道で大同法を始めている。それまで地方の特産物で納めさせていた貢納を、土地の広さに応じて米で納めさせる制度である。一方で、焼けた宮殿の再建と新しい宮殿の造営を続け、民の負担を重くした。

兄と弟の死

光海君にとって、兄の臨海君と幼い永昌大君は、自分に代わって王に立てられるおそれのある王族だった。即位したその年、臨海君は謀反を企てたとして流され、翌一六〇九年に殺された。

一六一三年には、強盗の罪で捕らえられた者たちが、取り調べのなかで、金悌男が永昌大君を王に立てようとしていると述べた。金悌男は死を賜り、永昌大君は王族の身分を奪われて江華島へ流された。翌一六一四年、永昌大君は江華島で殺された。まだ十歳に満たなかった。

一六一五年には、定遠君の子の綾昌君が流罪となり、流された地で没した。綾昌君を王に立てる計画があったとされたためである。定遠君は、宣祖が別の側室とのあいだにもうけた子である。綾昌君の兄が、のちの仁祖である。

閉じ込められた継母

仁穆王后は、宣祖の没後は大妃として宮中にいた。父と子を失った大妃についても、金悌男の謀反に関わったとして、廃するよう求める声が朝廷で強まった。求めた者の中心は、大北と呼ばれた党派の李爾瞻である。反対した李恒福は北へ流され、その地で没した。

一六一八年、仁穆大妃は大妃の称号を取り上げられ、西宮と呼ばれた慶運宮に閉じ込められた。のちの徳寿宮である。仁穆大妃は光海君より年下だが、父の正妃であり、儒教の礼では光海君の母にあたる。母を廃したことは、弟を死なせたことと合わせて廃母殺弟と呼ばれ、光海君の罪とされた。

明と後金

北では、女真のヌルハチが一六一六年に後金を建てていた。一六一九年、明は後金を攻めるにあたり、朝鮮に兵を出すよう求めた。壬辰倭乱で明の援軍を受けた朝鮮は断れず、姜弘立に兵を率いさせて送った。明軍はサルフの戦いで大敗し、姜弘立は後金に降った。

その後、光海君は後金と戦うことを避けながら、明との関係も保とうとした。だが明に恩があると考える官僚たち、とくに政権の外にいた西人は、これを強く非難した。

仁祖反正

一六二三年、西人の金瑬や李貴らが兵を挙げ、夜のうちに昌徳宮に入った。光海君は宮殿を抜け出したが、まもなく捕らえられた。兵を挙げた者たちは、定遠君の長男の綾陽君を王に立てた。これが仁祖である。臣下が王を廃して別の王族を立てたのは、一五〇六年に燕山君を廃した中宗反正に続いて二度目だった。

閉じ込められていた仁穆大妃は、大妃の位に戻されて、新しい王の即位を認めた。大妃は光海君を殺すよう求めたが、仁祖は流すにとどめたと伝えられる。光海君は江華島へ流され、のちに済州島へ移されて、一六四一年にそこで没した。同じく江華島へ流された光海君の世子は、地面を掘って逃げようとして捕らえられ、死を賜っている。

後金と清の侵攻

反正を起こした者たちは、廃母殺弟とともに、明への恩を忘れて後金と通じたことも光海君の罪に数えていた。新しい朝廷は明に従い、後金を遠ざけた。

一六二七年、後金が攻め込み、朝鮮は、後金を兄とし、自らを弟とする約束を結ばされた。一六三六年には、国号を清と改めたホンタイジがふたたび攻め込んだ。仁祖は南漢山城にこもったが、翌年に降り、漢江のほとりの三田渡でホンタイジに臣下の礼をとった。仁祖の長男の昭顕世子と次男の鳳林大君は、人質として清の都の瀋陽へ送られた。

昭顕世子の死

昭顕世子は瀋陽で八年を過ごし、清が北京に入ったのちには北京にも滞在した。一六四五年に帰国したが、二か月ほどで没した。病死とされたが、毒を盛られたとする見方もある。

仁祖は昭顕世子の長男を跡継ぎにせず、自分の次男の鳳林大君を世子に立てた。翌一六四六年には、昭顕世子の妃の姜嬪に、王の食事に毒を入れたとして死を賜った。昭顕世子の三人の息子は済州島へ流され、上の二人はそこで没した。鳳林大君は一六四九年に即位した。孝宗である。

家系図で見ると

図で宣祖の子を見ると、王になったのは次男の光海君だけである。王位は光海君の子へは渡らず、異母弟の定遠君の子の仁祖へ移った。定遠君は王にならなかったが、仁祖はのちに父を王として祀り、元宗とした。

光海君が廃された理由の一つは、異母弟を死なせたことだった。代わって王になった仁祖も、長男の子を跡継ぎから外し、長男の妃に死を賜っている。孝宗が長男でなかったことは、孝宗の没後にも問題になった。仁祖の二人目の正妃だった慈懿大妃は、孝宗のために喪に服すことになった。その期間をめぐって、朝廷で争いが起きた。孝宗を長男として扱うかどうかで、期間が変わるためである。この争いを礼訟という。

宣祖や仁祖のような、死後に贈られる王の名を廟号という。朝鮮王朝の王で廟号を持たないのは、燕山君と光海君の二人だけである。