一五七八年八月、ポルトガル王セバスティアンはモロッコのアルカセル・キビールで戦死した。二十四歳で、妻も子もなかった。あとを継いだ大叔父のエンリケは枢機卿で、一年半後に没する。アヴィス朝の嫡出の男系はここで尽き、王位を争ったのはマヌエル一世の孫たちであった。勝ったのは、母方の孫にあたるスペイン王フェリペ二世である。
マヌエル一世は、ポルトガルがインド航路を開いた時代の王である。子は多く、跡を継いだのは長男のジョアン三世であった。ジョアン三世は神聖ローマ皇帝カール五世の妹カタリナ・デ・アウストリアと結婚し、九人の子をもうけたが、ほとんどが幼いうちに没した。
最後に残った王子ジョアン・マヌエルは、カール五世の娘フアナと結婚する。だが一五五四年一月、子の誕生を待たずに十六歳で没した。十八日後に生まれた男子がセバスティアンである。跡継ぎを待っていた人々は、この子を「待ち望まれた王」と呼んだ。
母のフアナは、出産から数か月でスペインへ戻った。兄のフェリペ王子がイングランドの女王メアリーと結婚するために国を離れるあいだ、スペインを預かるためである。フアナは、その後二度と息子に会わなかった。
一五五七年、ジョアン三世が没し、孫のセバスティアンが三歳で即位した。はじめは祖母のカタリナが、のちに大叔父のエンリケが摂政を務めている。
成人したセバスティアンは、北アフリカでの戦いに強い関心を持った。結婚の話はいくつも出たが、どれもまとまらない。一五七八年、モロッコの王位争いに加わるため、王はみずから軍を率いて海を渡った。アルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍は大敗し、王は戻らなかった。この戦いでは、セバスティアンと、争っていたモロッコの二人の王の三人が命を落としたため、「三王の戦い」とも呼ばれる。捕らえられた多くの貴族を取り戻すための身代金も、国の財政を圧迫した。
王位を継いだのは、マヌエル一世の息子でただ一人生き残っていたエンリケであった。六十代半ばの枢機卿で、聖職にあるため妻を持てない。教皇に還俗と結婚の許しを求めたが、得られないまま、一五八〇年一月に没した。後継を定める間もなかった。
エンリケの死で、王位を主張できるのはマヌエル一世の孫たちになった。主な候補は次の四人である。
息子の血筋からは、ドゥアルテの娘カタリナと、庶出のアントニオが名乗りを上げた。娘の血筋からは、スペイン王とサヴォイア公が加わる。どの決まりで数えるかによって、答えが変わった。
一五八〇年夏、フェリペ二世はアルバ公の率いる軍をポルトガルへ送った。アントニオは王を名乗って迎え撃ったが、アルカンタラの戦いで敗れ、国外へ逃れる。一五八一年、トマールに集まった議会は、フェリペ二世をポルトガル王フィリペ一世として認めた。フェリペ二世は、ポルトガルを「相続し、買い取り、征服した」と語ったと伝えられる。血筋を主張し、貴族に金を配り、軍を送ったという意味である。
ポルトガルはスペインに併合されたのではない。法も貨幣も役所もそのまま残され、二つの王国が一人の王を共に戴く同君連合とされた。この形は六十年続く。
一六四〇年十二月、リスボンで貴族たちが蜂起し、スペインの支配を退けた。王に迎えられたのはブラガンサ公のジョアン四世である。父はブラガンサ公テオドジオ、祖母は、一五八〇年に王位を主張したドゥアルテの娘カタリナであった。六十年前に退けられた血筋が、孫の代で王位に就いたことになる。
セバスティアンの遺体は、はっきりとは確かめられなかった。そのため、王は生きていて、いつかポルトガルの危機に帰ってくるという言い伝えが広まる。セバスティアンを名乗る者も何人も現れた。王位がスペイン王のものとなった時代、この言い伝えを信じる人は少なくなかった。
アヴィス朝の断絶は、一人の王が戦場で死んだことに始まる。だが王位がスペイン王に渡った理由は、系図の側にある。ジョアン三世の子はほとんど育たず、王家の跡継ぎはセバスティアン一人になっていた。そのうえ王家は、代々スペインの王家と結婚を重ねていた。男系が尽きたとき、最も力のある候補は、母方の血でつながるスペイン王だったのである。