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武田家の滅亡:娘婿と一門が勝頼から離れた

一五八二年三月、武田勝頼は甲斐の田野で自害し、武田家は滅んだ。織田信長の軍が信濃へ入ってから、ひと月あまりのことである。この戦いの前後に勝頼から離れた者を家系図で探すと、信玄の娘婿が二人いる。そのうち一人は信玄の甥でもあった。婚姻と血でつないだ相手が、いちばん必要なときに離れていった。

周りの家に子を入れる

武田信玄は一五四一年に父の武田信虎を駿河へ追い、家督を握った。そのあと信濃へ兵を進め、征服した土地の家に自分の子を入れていった。五男の仁科盛信は、信濃の仁科家を継いでいる。

娘は周りの家へ嫁がせた。長女の黄梅院は北条氏康の子の北条氏政へ、次女の見性院は一門の穴山梅雪へ、三女の真理姫は信濃の木曾谷を治める木曾義昌へ嫁いだ。梅雪の母は信虎の娘なので、梅雪は信玄の甥でもある。木曾は武田に従った信濃の家で、この婚姻によって親族の一人に数えられた。

諏訪の子が継ぐ

信玄の跡を継ぐはずだったのは、嫡男の武田義信である。ところが今川攻めをめぐって父と対立し、一五六五年に幽閉され、二年後に没した。次男は目が見えず、三男は早くに死んでいたので、跡継ぎは四男の勝頼になった。

勝頼の母は、信玄が一五四二年に滅ぼした諏訪頼重の娘である。勝頼ははじめ諏訪の家を継ぐ子として育てられ、信濃の高遠城を預けられていた。名にも、武田が代々用いた信の字がなく、諏訪の頼の字が入っている。武田の家臣から見れば、勝頼は一度ほかの家に出された人だった。

勝頼の最初の妻の遠山夫人は、信長の姪で、信長の養女として嫁いできた。一五六七年に長男の武田信勝を生んでいる。一五七三年に没した信玄は、信勝を跡継ぎとし、勝頼は信勝が成人するまでの後見とするよう言い残したと伝えられる。

北条と上杉のあいだで

一五七五年、勝頼は長篠で織田・徳川の軍に敗れた。二年後、北条氏政の妹を妻に迎え、北条との同盟を固め直している。黄梅院は同盟が破れたときに北条から帰されていたので、二つの家はもう一度婚姻で結ばれたことになる。

一五七八年、上杉謙信の死後に越後で御館の乱が起きた。勝頼ははじめ、氏政の弟の上杉景虎を助けるために兵を出した。ところがのちに上杉景勝と結び、妹の菊姫を嫁がせた。景虎は敗れて自害し、北条は武田との同盟を破って徳川家康と結んだ。妻の実家が敵になった。

一五八一年には、遠江の高天神城が徳川に落とされた。勝頼は援軍を送れず、城を見捨てたと受け取られた。

娘婿が離れる

一五八二年二月、木曾義昌が織田方についた。木曾谷は、美濃から信濃へ入る道の上にある。勝頼は人質として預かっていた義昌の母と子を殺し、木曾へ兵を向けた。信長はこれを機に、子の織田信忠を大将として信濃へ軍を入れた。徳川は駿河から、北条は関東から攻め込んだ。

二月の末には、穴山梅雪が徳川家康に降った。梅雪は信玄の甥であり、信玄の娘を妻とする婿でもある。武田の一門の中でも、もっとも近い一人だった。梅雪の子の穴山勝千代は信玄の孫にあたり、梅雪にはこの子に武田の家を継がせる考えがあったとも言われる。

弟は城に残る

高遠城は、かつて勝頼が城主を務めた城で、このときは異母弟の仁科盛信が守っていた。三月二日、信忠の軍に囲まれた盛信は降伏を拒み、城とともに死んだ。

信忠はかつて、盛信と同じ母から生まれた妹の松姫と婚約していた。武田と織田が争うようになって、婚約は果たされなかった。武田が滅ぶころ、松姫は武蔵の八王子へ逃れ、のちに尼になった。

田野

三月三日、勝頼は移ったばかりの新府城に火を放って東へ逃れた。重臣の小山田信茂を頼って岩殿城へ向かったが、信茂は勝頼を城に入れなかった。行き場を失った勝頼は、三月十一日、田野で信勝と北条から来た妻とともに死んだ。信勝は十六歳、妻は十九歳だった。

信勝の母は信長の姪であり、勝頼の妻は氏政の妹である。攻めてきた二つの家とつながる者が、勝頼とともに死んだことになる。

そのあと

梅雪は同じ年の六月、本能寺の変のあとに畿内から帰る途中で殺された。勝千代は一五八七年に若くして没し、梅雪の家も絶えた。家康は自分の子の一人に武田の名を継がせたが、この子も一六〇三年に没している。木曾義昌は信長から所領を加えられたが、子の代で領地を失った。

見性院は徳川の世まで生き、二代将軍秀忠の子で、のちの保科正之を江戸で育てた。正之はのちに、仁科盛信が守って死んだ高遠の城主になる。

縁で組んだ一門

信玄は娘を嫁がせ、子を他家に入れて、周りの家を一門の形に組み上げた。武田が強いあいだ、それは家を広げる仕組みとしてよく働いた。しかし一五八二年に勝頼から離れたのは、婚姻で結んだ家のほうだった。最後まで勝頼のそばにいたのは、跡継ぎの信勝と、敵となった北条から来た妻である。