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無政府時代:ヘンリー一世の娘と甥が王位を争った

一一三五年十二月、イングランド王ヘンリー一世が没した。跡継ぎには娘のマティルダが定められ、諸侯は二度にわたって誓いを立てていた。ところが先に戴冠したのは、王の甥のスティーヴンだった。二人はどちらもウィリアム一世の孫である。ここから二十年近く、イングランドでは王位をめぐる内乱が続いた。のちに無政府時代と呼ばれる時期である。

ウィリアム一世の子

ウィリアム一世は一〇八七年に没し、ノルマンディーを長男のロベール短袴公に、イングランドを三男のウィリアム二世に残した。末の息子のヘンリーに与えられたのは、銀五千ポンドだった。

一一〇〇年、ウィリアム二世がニューフォレストで狩りの最中に矢に当たって死んだ。ヘンリーも同じ狩りに加わっていた。すぐにウィンチェスターの宝庫を押さえ、三日後に戴冠している。ロベールは第一回十字軍から帰る途中だった。一一〇六年、ヘンリーはタンシュブレーでロベールを破って捕らえた。ロベールは一一三四年に死ぬまで幽閉され、イングランドとノルマンディーはヘンリーのもとで一つになった。

王妃の血

ヘンリー一世は即位の年に、スコットランド王マルカム三世の娘エディスを妃に迎えた。エディスは結婚にあたってマティルダと名を改めた。母のマーガレットは、一〇六六年に王位を継げなかったエドガー・アシリングの姉である。この結婚で、ノルマンディー公の家に古いイングランド王家の血が入った。

二人のあいだには、一一〇二年に娘のマティルダが、翌年に息子のウィリアム・アデリンが生まれた。

ホワイト・シップ号

一一二〇年十一月、ウィリアム・アデリンはノルマンディーのバルフルールからイングランドへ渡る途中、ホワイト・シップ号の沈没で死んだ。十七歳だった。船員も乗客も酒に酔っていたと伝えられる。王の嫡出の男子は、これで一人もいなくなった。

ヘンリー一世は妃をすでに亡くしており、翌年に再婚したが、子は生まれなかった。ウィリアム一世の嫡出の男系で残る男子は、ロベールの子ギヨーム・クリトンだけだった。フランス王ルイ六世の支持を受けてノルマンディーを求めていたが、一一二八年に戦いの傷がもとで死んだ。

娘を跡継ぎに

マティルダは幼くして神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世に嫁ぎ、一一二五年に夫を亡くしていた。皇帝の妃だったので、皇后マティルダとも呼ばれる。

一一二七年、ヘンリー一世は諸侯と司教を集め、マティルダを跡継ぎとして認める誓いを立てさせた。誓った者の中には甥のスティーヴンもいた。翌年、マティルダはアンジュー伯の子ジョフロワ・プランタジネットと結婚した。十一歳年下である。アンジューはノルマンディーと長く争ってきた隣国で、この結婚はノルマンディーの諸侯に好まれなかった。一一三一年には誓いがもう一度立てられ、一一三三年に長男のヘンリーが生まれた。

甥の戴冠

スティーヴンは、ウィリアム一世の娘アデルとブロワ伯エティエンヌの子である。叔父のヘンリー一世の宮廷で育ち、イングランドに広い領地を与えられていた。妃のマティルダはブローニュ伯の家の跡取りで、その母はヘンリー一世の妃の妹だった。スティーヴンもその妃も、王家にごく近い。

一一三五年十二月一日、ヘンリー一世はノルマンディーで没した。マティルダは夫とともにアンジューにいた。スティーヴンはブローニュからすぐに海を渡り、ロンドンの市民に王として迎えられた。弟のウィンチェスター司教ヘンリー・オブ・ブロワが宝庫と教会の支持をまとめ、十二月二十二日に戴冠した。王が臨終に誓いを解いたと証言する者もいた。ノルマンディーには兄のティボーを推す動きもあったが、スティーヴンの戴冠を聞いて取りやめになった。

内乱

一一三八年、ヘンリー一世の庶子でマティルダの異母兄にあたるグロスター伯ロバートが、マティルダの側についた。マティルダの母の弟であるスコットランド王デイヴィッド一世も北から攻め込んだが、スタンダードの戦いで敗れている。一一三九年、マティルダ自身がイングランドに上陸した。

一一四一年二月、リンカンの戦いでスティーヴンが捕らえられた。マティルダは「イングランド人の女主人」を名のり、戴冠のためにロンドンへ入った。しかし市民の反発を受けて、戴冠の前に追い出された。スティーヴンの妃マティルダは兵を集めて戦い続け、九月のウィンチェスターの戦いではグロスター伯ロバートを捕らえた。十一月、ロバートとスティーヴンが交換され、二人とも自由の身に戻って争いは続いた。

一一四二年の冬、オックスフォードで囲まれたマティルダは、雪の中を白い衣で抜け出したと伝えられる。一一四四年には夫のジョフロワがノルマンディーを押さえた。一一四七年にロバートが没し、マティルダは翌年イングランドを去った。

母の権利を子が継ぐ

マティルダの権利は、子のヘンリーが継いだ。ヘンリーは一一五〇年にノルマンディー公、翌年に父の跡を継いでアンジュー伯となり、一一五二年にはアキテーヌ女公アリエノールと結婚した。フランス西部の大半を持つ人が、イングランドの王位を求める形になった。

スティーヴンは長男のユースタスを生前に戴冠させようとしたが、カンタベリー大司教に拒まれた。一一五三年、ヘンリーがイングランドへ渡った。両軍はウォリングフォードで向かい合ったが、諸侯は戦うことを望まなかった。八月にユースタスが急死すると、十一月に和約が結ばれた。スティーヴンは生涯王位にとどまり、ヘンリーを養子として跡継ぎにすると定めた。

一一五四年十月にスティーヴンが没し、十二月にヘンリー二世が戴冠した。プランタジネット朝の始まりである。

四人のマティルダ

家系図にはマティルダが四人いる。ウィリアム一世の妃、ヘンリー一世の妃、その娘、スティーヴンの妃である。ヘンリー一世の妃とスティーヴンの妃は伯母と姪の関係にあり、皇后マティルダとスティーヴンの妃はいとこどうしだった。王位を争った二人もまた、いとこどうしである。

女性の継承

ヘンリー一世は、娘を跡継ぎにするという前例のないことを試みた。しかし諸侯の多くは女性の王を望まず、女系でつながる甥を選んだ。結局、王位はマティルダ自身ではなく、その子に渡った。イングランドで女性が戴冠して王位についたのは、四百年あまりのちのメアリー一世が最初である。