一七四〇年十月、皇帝カール六世が没し、ハプスブルク家の男系が絶えた。領地を継いだのは二十三歳の娘マリア・テレジアである。すぐにプロイセンがシュレージエンへ攻め込み、バイエルン選帝侯が相続を求めた。この選帝侯の妻は、カール六世の兄の娘である。三十七年前に家の中で結ばれた取り決めでは、その妻のほうがマリア・テレジアより先に継ぐはずだった。
レオポルト一世には、成人した息子が二人いた。兄のヨーゼフ一世と、七歳下の弟カールである。一七〇三年、カールはスペイン継承戦争のさなかに、スペインの王位を求めて旅立つことになった。
出発の前に、父と兄弟は家の相続について秘密の取り決めを結んだ。兄はオーストリアの領地を、弟はスペインを継ぐ。どちらかの男系が絶えれば、もう一方が継ぐ。男子がなく娘しか残らないときは、兄の娘が弟の娘より先に継ぐ。兄の家を先にする、年の順どおりの順位である。
一七〇五年に父が没し、ヨーゼフ一世が皇帝になった。男子のレオポルト・ヨーゼフは一歳にならずに死んでおり、残った子は娘のマリア・ヨーゼファとマリア・アマーリアだけだった。
一七一一年四月、ヨーゼフ一世が天然痘で没した。三十二歳である。オーストリアの領地は弟のカールが継ぎ、その年のうちに皇帝に選ばれた。スペインの王位を争う者が皇帝を兼ねることを同盟国は嫌い、和平へ向かった。カールはスペインを得られなかった。
一七一三年四月、カール六世は国事詔書を発した。ハプスブルクの領地は分けずに一人が継ぐ。男子がなければ娘が継ぎ、その順は自分の娘が先、兄の娘があととする。十年前の取り決めとは逆の順位である。
このときカール六世にはまだ子がなかった。一七一六年に男子のレオポルト・ヨハンが生まれたが、半年あまりで死んだ。翌年に生まれたのがマリア・テレジアである。その後も男子は生まれなかった。
兄の二人の娘は、ドイツの選帝侯の家へ嫁いだ。姉のマリア・ヨーゼファは一七一九年、ザクセン選帝侯の子で、のちにポーランド王となるアウグスト三世と結婚した。妹のマリア・アマーリアは一七二二年、バイエルン選帝侯の子カール・アルブレヒトと結婚した。
一七〇三年の取り決めに従えば、この二人はマリア・テレジアより先に継ぐ人である。カール六世は結婚の条件として、二人にハプスブルクの領地を継ぐ権利を放棄させた。
国事詔書は家の中の定めにすぎない。カール六世はこれを、自分の領地の議会と外国の君主に、一つずつ認めさせていった。治世の後半の外交は、多くがこのためのものだった。
ハンガリーの議会は一七二三年に認めた。イギリスとオランダには、オーストリア領ネーデルラントに作った、東インドと交易する会社を解散することと引き換えに認めさせた。帝国議会は一七三二年に認めたが、バイエルンやザクセンは反対した。ザクセンからは翌年、選帝侯がポーランド王になるのを支えることと引き換えに承認を得た。バイエルンは最後まで認めなかった。
将軍のオイゲン公は、条約を集めるより、軍を整えて国庫を満たすほうが確かな備えになると説いたと伝えられる。
一七三六年、マリア・テレジアはロレーヌ公フランツ・シュテファンと結婚した。少年のころからウィーンの宮廷で育った人で、本人どうしが望んだ結婚だったと言われる。
フランスはこの結婚を嫌った。ロレーヌはフランスと境を接しており、その公が皇帝の娘の夫になれば、ロレーヌがハプスブルクのものになる。ポーランド継承戦争の講和で、フランツはロレーヌを手放し、かわりにメディチ家が絶えたトスカーナを得た。フランスはこの取り引きで国事詔書を認めた。
カール六世が没して二か月たたないうちに、プロイセン王フリードリヒ二世がシュレージエンへ兵を入れた。根拠に挙げたのは、二百年前にブランデンブルク家がシュレージエンの公と結んだ相続の約束だった。
バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、ハプスブルクの領地そのものを求めた。十六世紀にフェルディナント一世の娘アンナがバイエルン公へ嫁いでおり、その子孫であることを根拠にした。ザクセンも、妻がヨーゼフ一世の長女であることを持ち出して、バイエルンの側に加わった。フランスはバイエルンを支援し、スペインもイタリアの領地を求めて加わった。
一七四一年、フランス・バイエルン・ザクセンの軍がボヘミアへ入り、十一月にプラハを占領した。カール・アルブレヒトはボヘミア王を名のり、翌一七四二年一月に皇帝に選ばれてカール七世となった。皇帝の位がハプスブルク家の外へ出たのは、およそ三百年ぶりである。
ところが、カール七世が戴冠した二月のうちに、オーストリア軍がバイエルンの都ミュンヘンを占領した。皇帝になった人が、自分の国へ帰れなくなった。
マリア・テレジアが頼ったのはハンガリーだった。一七四一年六月にハンガリー女王として戴冠し、九月には議会に出て助けを求めた。貴族たちは兵を出すことを約した。同じ年の三月には、長男のヨーゼフ二世が生まれている。男子の跡継ぎができたことも、彼女の立場を強めた。
プロイセンとは二度戦って二度和を結び、シュレージエンの大半を渡した。カール七世は一七四五年一月に没した。子のマクシミリアン三世ヨーゼフは四月にフュッセンで和約を結び、相続の請求を取り下げて、次の皇帝選挙でフランツに票を入れると約した。九月、フランツ・シュテファンは皇帝フランツ一世に選ばれた。
戦争は一七四八年のアーヘンの和約で終わった。国事詔書は各国に認められ、マリア・テレジアの相続が確定した。失ったのはシュレージエンと、パルマなどイタリアのいくつかの領地である。家はマリア・テレジアと夫の子孫に受け継がれ、ハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ばれるようになった。
マリア・テレジアはしばしば女帝と呼ばれる。しかし皇帝に選ばれたのは夫のフランツ一世で、本人の地位はハンガリー女王、ボヘミア女王、オーストリア大公である。皇帝の妃なので、皇后ではあった。
国事詔書が定めたのは、ハプスブルク家の領地を誰が継ぐかである。皇帝の位は選帝侯の選挙で決まり、家の中の決まりは及ばない。カール・アルブレヒトが皇帝になれたのはそのためである。
争った二つの家は、次の代で婚姻を結んだ。一七六五年、ヨーゼフ二世はカール七世の娘マリア・ヨーゼファを二度目の妃に迎えている。ザクセンへ嫁いだ伯母と同じ名である。二年後に彼女は天然痘で没し、子はなかった。
一七七七年、マクシミリアン三世ヨーゼフが子を残さずに没し、バイエルンのヴィッテルスバッハ家の系統が絶えた。バイエルンはプファルツ選帝侯が継いだが、ヨーゼフ二世はその一部を求めて兵を入れた。プロイセンがこれを阻み、一七七九年のテシェン条約でオーストリアが得たのは小さな土地だけだった。一七四〇年にハプスブルクの領地を求めたバイエルンは、四十年足らずのちに、自分の領地をハプスブルクに求められた。