一五八六年十二月、長宗我部元親の嫡男の信親が、豊後の戸次川で島津軍と戦って死んだ。元親は跡継ぎに四男の盛親を選び、信親の娘を盛親の妻にした。叔父と姪の結婚である。この選び方に異を唱えた一族は切腹を命じられた。跡継ぎをめぐる処分は、関ヶ原のあと長宗我部家が土佐を失うところまでつながっている。
長宗我部家は土佐の国人の一つで、一度は周りの勢力に攻め滅ぼされかけた。元親の父の長宗我部国親は、幼いころ、土佐の西部を治める一条家に引き取られて育ち、その助けで家を立て直した。国親は子を土佐の有力な家に入れた。次男の吉良親貞は吉良家を、三男の香宗我部親泰は香宗我部家を継いでいる。家の名を継がせることで、その家の土地と家臣を取り込んだのである。
元親は若いころ、色白でおとなしく、姫若子と呼ばれていた。一五六〇年、二十二歳で長浜の戦いに初めて出ると、自ら槍を取って戦い、評判を改めたという。同じ年に国親が没し、元親が跡を継いだ。弟たちの家を従えて土佐の豪族を一つずつ下し、一五七五年には、かつて父を育てた一条家を破って、土佐を一つにまとめた。
元親の妻は、幕府に仕えた石谷光政の娘である。石谷家を継いだ石谷頼辰は、明智光秀の重臣の斎藤利三の兄にあたる。元親はこの縁を通じて織田信長と結び、嫡男に信長から信の字をもらって信親と名のらせた。信親の妻も、頼辰の娘である。
ところが信長は、のちに元親が四国で広げた領地を取り上げようとし、一五八二年には四国へ兵を出す支度を整えた。その出発の直前に、本能寺の変が起きている。変の理由をこの縁に求める説もある。
信長が死ぬと、元親は阿波・讃岐・伊予への攻めを強めた。一五八二年八月には、阿波の中富川で三好方の十河存保を破っている。
一五八五年、豊臣秀吉が弟の羽柴秀長を大将として四国へ兵を送り、元親は降って土佐一国だけを残された。翌年、秀吉は九州の島津を攻めるため、元親と信親に出陣を命じた。軍を率いたのは仙石秀久である。
十二月、仙石は川を渡って、島津家久の率いる島津軍に攻めかかり、待ち伏せにあって敗れた。信親は踏みとどまって戦い、二十二歳で死んだ。元親は逃れて生き延びたが、跡継ぎを失った痛手は大きく、以後は気力を失ったと言われる。
この戦いでは、かつて阿波で元親と争った十河存保も、豊臣方として加わって死んでいる。秀吉は敗戦の責めを問い、仙石の領地を取り上げた。
元親には信親のほかにも男子がいた。次男の香川親和は讃岐の香川家を、三男の津野親忠は土佐の津野家を継いでいた。父の国親と同じく、元親も子を他家に入れていたのである。他家を継いでいない男子のうち、年長だったのが四男の盛親だった。
元親は盛親を跡継ぎに選び、信親の娘を盛親の妻にした。信親の血を本家に残すためと考えられる。兄の信親が信長から字をもらったのに対し、盛親は豊臣家の奉行の増田長盛から盛の字をもらったとされる。重臣の久武親直が盛親を推したとも伝えられる。
これに異を唱えたのが、元親の甥の吉良親実や、一門の比江山親興である。一五八八年、二人は元親の怒りを買って切腹を命じられた。親実は、国親が子を入れた吉良家の当主である。家を広げるために分けた枝が、本家の跡継ぎに口を出す立場になっていた。親和も、この話が進むなかで病没している。
一五九七年、元親と盛親は連名で掟書を出し、家臣と領民が守る決まりを定めた。一五九九年に元親が伏見で没し、盛親が家を継いだ。このころ親忠は幽閉されていた。翌一六〇〇年の関ヶ原の戦いで、盛親は西軍に加わったが、戦わないまま土佐へ帰った。
戦いのあと、盛親は親忠を自害させた。兄を死なせたことは、長宗我部家が土佐を取り上げられた理由の一つになったとされる。土佐は山内一豊に与えられた。ふだんは田を耕し、呼ばれればすぐに戦に出る家臣たちは一領具足と呼ばれた。その一領具足が浦戸城の明け渡しに反対して一揆を起こしたが、鎮められている。
盛親は京で暮らし、子どもに読み書きを教えていたと伝えられる。一六一四年、大坂城に入って豊臣方についた。城に集まった牢人の中でも、主だった五人の一人に数えられている。翌年、八尾で藤堂高虎の軍と戦い、一時は押し返したが、味方が若江で敗れたため退いた。大坂城が落ちたあとに捕らえられ、京の六条河原で斬られた。子も殺され、長宗我部の本家は絶えた。
国親も元親も、子を他家に入れて土佐の家々を取り込んだ。家が広がっているあいだ、それはよく働いた。しかし嫡男が死ぬと、跡継ぎの候補はすでに他家の当主になっていた。元親は家に残った四男を選び、信親の娘と結婚させて本家の筋を整えた。その形に異を唱えたのも、他家に入った枝の側だった。