三国の一つの呉は、孫堅、孫策、孫権の父子が、江東と呼ばれた長江の下流の地に築いた国である。孫権は五十年あまりにわたって呉を治めたが、その晩年に、皇太子の孫和と、その弟で魯王の孫覇をめぐって家臣が二つに割れた。これを二宮の変という。この争いで多くの重臣が死に、孫権の死後の呉では、皇帝が家臣に立てられたり廃されたりすることが続いた。
孫堅は呉郡富春の出身で、黄巾の乱や董卓との戦いで名を上げた武将である。一九一年ごろ、荊州の劉表を攻めたさなかに戦死した。孫策と孫権は、孫堅の妻の呉夫人が産んだ兄弟である。
長男の孫策は、袁術のもとに身を寄せたのち、兵を率いて江東へ渡り、各地を従えた。だが二〇〇年、狩りに出たところを襲われ、その傷がもとで二十代の半ばで没する。孫策は死の前に、まだ十代の弟の孫権に後を託した。
孫権は、張昭や周瑜など、父と兄に仕えた家臣に支えられて江東を保った。二〇八年には劉備と結び、曹操の大軍を赤壁で退けている。二二一年には魏から呉王に封じられた。翌二二二年には、荊州をめぐって争った劉備の軍を夷陵で破っている。このとき軍を率いたのが、のちに二宮の変で皇太子を守ろうとする陸遜である。二二九年、孫権はみずから皇帝となり、都を建業に置いた。いまの南京である。
孫権は長男の孫登を皇太子に立てていた。孫登は家臣からの信望も厚かったが、二四一年、父より先に三十代で没した。死の前には上奏文を残し、弟の孫和を後継ぎに推したとされる。次男の孫慮もすでに亡く、孫権は翌年、三男の孫和を皇太子に立てる。同じ年、四男の孫覇を魯王とした。魯の地は魏の領内にあり、王の名は形だけのものである。
孫権は孫覇をかわいがり、皇太子とほとんど変わらない待遇を与えた。宮とは、皇太子や王が住み、家臣を置いた御殿のことである。皇太子の宮と魯王の宮が並んだことから、この争いは二宮の変と呼ばれる。
家臣たちは、皇太子の孫和を支える者と、魯王の孫覇を推す者とに分かれた。皇太子の側には、二四四年に丞相となっていた陸遜らが付いた。丞相は、皇帝を助けて政治をまとめる最も高い官職である。魯王の側には、歩騭や全琮らが付いた。孫権の娘で全琮の妻となった孫魯班も、孫和とその母の王夫人を、孫権に悪く言った。
陸遜は、皇太子の位を守るよう孫権にくり返し訴えた。孫権はこれを嫌い、使者を送って陸遜を責めた。陸遜は二四五年、憤りのうちに没した。子の陸抗は、のちに呉の将軍として魏や晋と戦っている。皇太子の側に付いたほかの家臣の多くは、流されたり殺されたりした。
二五〇年、孫権は争いを終わらせるため、皇太子の孫和を廃して遠ざけ、魯王の孫覇には自殺を命じた。魯王の側の家臣も多くが殺された。新たに皇太子となったのは、まだ幼い末子の孫亮である。
二五二年に孫権が没し、孫亮が即位した。ここから呉では、皇帝に代わって実権をふるう臣下、つまり権臣が政治を握る時代が続く。最初に後を託されたのは、重臣の諸葛恪である。諸葛恪は翌年、魏の合肥新城を攻めて多くの兵を失い、宮中で孫氏の一族の孫峻に殺された。孫峻は、諸葛恪と縁のあった廃太子の孫和にも、自殺を命じている。
孫峻の死後は、同じ一族の孫綝が実権を握った。二五八年、孫亮は孫綝を除こうとして失敗し、位を追われる。会稽王に落とされた孫亮は、二六〇年に没した。孫綝が次に立てたのは、孫権の六男の孫休であった。孫休は、即位したその年のうちに孫綝を殺している。
二六四年に孫休が没すると、家臣たちは、廃太子の孫和の子で、二十代前半の孫晧を皇帝に迎えた。前の年に蜀が魏に滅ぼされ、呉には幼い皇帝ではなく、大人の皇帝が要ると考えられたからである。孫晧は、はじめは倉を開いて民に施すなどして期待を集めた。だがやがて、気に入らない家臣を次々に殺すようになり、国内は乱れた。二八〇年、晋の大軍に攻められて孫晧は降り、呉は滅びた。三国のうちで最後まで残ったのが呉である。降った孫晧は、晋の都の洛陽で没している。
系図で孫権の子を見ると、帝位に就いたのは末子の孫亮、六男の孫休、そして孫和の子の孫晧である。孫亮と孫休は、二宮の変がなければ帝位から遠い位置にいた。孫晧は、変がなければ、皇太子の子として帝位を継ぐ立場にあった人である。
孫権が皇太子と弟を同じように扱ったことで、家臣は二つに割れた。争いのあとには、幼い皇帝と、皇帝を立てたり廃したりする一族の権臣が残った。呉が力を失うきっかけは、孫権の晩年の後継ぎの扱いにあった。