一四四九年、明の皇帝の朱祁鎮は、みずから兵を率いて北へ出たところを、土木堡でオイラトの軍に捕らえられた。北京では弟の朱祁鈺が帝位につき、捕らわれた兄は上皇とされた。一年後に兄は帰ってきたが、弟は兄を宮殿に閉じ込め、皇太子も自分の子に替えた。八年後、兄は臣下に迎えられて帝位を取り戻す。奪門の変である。
洪熙帝の朱高熾の子が、宣徳帝の朱瞻基である。宣徳帝には二人の男子がいた。皇后の孫氏の子とされる朱祁鎮と、側室の呉氏が生んだ朱祁鈺である。朱祁鎮が生まれると、宣徳帝は男子のなかった皇后の胡氏を退け、孫氏を皇后に立てた。朱祁鎮は実は宮女の子で、孫氏が自分の子として育てたという話も伝わる。
一四三五年に宣徳帝が没すると、幼い朱祁鎮が帝位についた。のちに英宗と呼ばれる皇帝で、在位のはじめの年号から正統帝ともいう。祖母の張太皇太后が政治を支えたが、その没後は、英宗が幼いころから仕えた宦官の王振が力を握った。
一四四九年、モンゴル高原の西にいたオイラトが、エセンに率いられて明の北の国境を攻めた。明への朝貢の扱いをめぐる争いがきっかけだった。英宗は王振に勧められて、五十万と称する大軍をみずから率いて出た。しかし戦果のないまま引き返すことになり、退く道を王振がたびたび変えて遅れが出たとも伝えられる。軍は水の得られない土木堡で囲まれて大敗した。王振は死に、英宗は捕らえられ、従っていた重臣の多くも戦死した。土木の変である。オイラトのもとで、英宗はエセンの弟の陣に置かれ、丁重に扱われたという。
北京は永楽帝が都と定めた地で、北の国境に近い。そのため、南へ都を移そうという声も出た。兵部の高官の于謙はこれに反対し、守りを固めた。皇帝を人質に取られたままでは、敵の求めを拒めない。英宗の母の孫太后は、兄の出陣中に北京の留守を任されていた弟の朱祁鈺を、帝位につけることを認めた。景泰帝である。英宗は上皇とされた。
英宗の皇后の銭氏は、身代金のために財を差し出し、泣き続けて片目が見えなくなったと伝えられる。同じ年の秋、エセンは英宗を連れて北京に迫ったが、于謙の守りに阻まれて退いた。于謙はそのあとも兵の制度を改め、北の守りを立て直している。
別の皇帝が立った以上、捕らえた英宗に交渉の値打ちはなくなった。一四五〇年、エセンは英宗を返すと申し出た。景泰帝は迎えることに気が進まなかったが、于謙が、帝位はすでに定まっていると説いたという。迎えられた英宗は、南宮と呼ばれる宮殿に住まわされ、外との行き来を断たれた。門には鍵がかけられ、食事は小さな穴から差し入れられたと伝えられる。この幽閉は七年に及ぶ。エセンのほうは、のちに自らハンを名のったが、一四五四年に殺された。
景泰帝はさらに、一四五二年、英宗の子の朱見深を皇太子から外し、自分の子の朱見済を皇太子に立てた。これに反対した皇后の汪氏を退け、朱見済の母の杭氏を皇后としている。ところが朱見済は翌年に没した。景泰帝はそれでも朱見深を皇太子に戻さず、跡継ぎは決まらないままになった。
一四五七年の正月、景泰帝が病に倒れた。将軍の石亨や宦官の曹吉祥、官僚の徐有貞らは兵を率いて南宮の門を破り、英宗を連れ出して帝位に戻した。年号は天順と改められ、朱見深は皇太子に戻った。門を奪って帝位を取り戻したことから、奪門の変という。景泰帝はもとの郕王に落とされ、一か月ほどのちに没した。殺されたとする見方もある。
北京を守った于謙は、捕らえられて処刑された。宣徳帝の弟の朱瞻墡の子を帝位に迎えようとした、という罪に問われたのである。英宗を帝位に戻した石亨や曹吉祥も、数年のうちに罪に問われて死んでいる。
英宗は一四六四年に没し、朱見深が帝位を継いだ。成化帝である。英宗は遺言で、皇帝の死に妃たちを殉じさせる習わしをやめさせている。子のなかった銭皇后を自分と同じ墓に葬るよう言い残したともいう。朱見深が皇太子を外されていたころから仕えた宮女の万氏は、のちに成化帝の妃となり、深く寵愛された。二十歳近く年上だったという。于謙の罪も、成化帝の代に取り消された。成化帝は、自分を皇太子から外した叔父について、のちに帝号を戻した。それでも景泰帝は北京の西の山に親王として葬られたままで、明の皇帝が並ぶ十三陵には入っていない。代宗という廟号が贈られたのは、明が北京を失った一六四四年、南京に立った政権によってである。
家系図では、宣徳帝の下に兄と弟が並び、どちらの下にも男子が一人ずつ描かれている。帝位は兄から弟へ移り、また兄へ戻って、最後は兄の子が継いだ。明の皇帝は一代に一つの年号を用いたが、英宗だけは正統と天順の二つを持つ。弟が自分の子に替えた皇太子の位は、その子が早くに死に、兄が帝位に戻ったことで、兄の子のもとへ戻った。