一四〇七年十一月、パリの路上で王弟のオルレアン公ルイが殺された。殺させたのは、いとこのブルゴーニュ公ジャン無怖公である。王のシャルル六世は心を病んでおり、政治を誰が握るかを、王の叔父の家と弟の家が争っていた。この殺害からフランスは内乱に入り、やがてイングランド王を跡継ぎに迎える条約まで結ぶことになる。
ジャン二世には四人の息子がいた。長男が王位を継いでシャルル五世となり、ほかの三人はアンジュー、ベリー、ブルゴーニュを与えられた。この領地は親王領と呼ばれ、男系が絶えれば王領へ戻る決まりだった。
末の息子のフィリップ豪胆公は、一三五六年のポワティエの戦いで、十四歳ながら父のそばで戦い、ともに捕らえられた。一三六三年にブルゴーニュ公となり、一三六九年にはフランドル伯の跡取り娘マルグリット・ド・フランドルと結婚した。この結婚でフランドルやアルトワなどが加わり、ブルゴーニュ公家は王家の分家にとどまらない大きさになった。
シャルル五世は一三八〇年に没し、十一歳のシャルル六世が王となった。はじめは叔父たちが政治を動かした。一三九二年、王は心の病を発し、以後は正気と錯乱をくり返した。
政治を握ろうとしたのは、王の叔父のブルゴーニュ公フィリップと、王の弟のオルレアン公ルイである。ルイは、ミラノのジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘ヴァレンティーナを妻にしていた。
一四〇四年にフィリップが没し、子のジャン無怖公が跡を継いだ。ジャンとルイはいとこどうしで、どちらも王の政治に深く関わっていた。一四〇七年十一月、ルイはパリの路上でジャンの手の者に襲われて死んだ。ジャンは殺害を命じたことを隠さず、神学者に、暴君を討つのは正しいと論じさせた。
ルイの子のシャルル・ドルレアンは十三歳だった。のちにアルマニャック伯ベルナール七世の娘を妻に迎え、ベルナールがオルレアン家の側の中心になる。この側は、伯の名からアルマニャック派と呼ばれた。フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて争い、どちらもイングランドに助けを求めた。
一四一五年、イングランド王ヘンリー五世が攻め込み、アザンクールでフランス軍を破った。シャルル・ドルレアンは捕らえられ、二十五年をイングランドで過ごすことになる。ジャン無怖公は戦いに加わらなかったが、その弟二人はフランス軍の中で戦死している。
一四一八年、ブルゴーニュ派がパリを押さえ、アルマニャック伯は殺された。王太子のシャルル、のちのシャルル七世はパリを逃れた。兄たちが相次いで死んだため、王太子になっていた人である。
一四一九年九月、王太子とジャン無怖公は、セーヌ川に架かるモントローの橋の上で会った。和解のための会見だったが、ジャンはその場で王太子の家臣に殺された。十二年前のオルレアン公ルイの殺害に対する報復と受け取られた。
跡を継いだフィリップ善良公は、父を殺した王太子を許さず、イングランドと結んだ。一四二〇年のトロワ条約で、シャルル六世の娘のカトリーヌがヘンリー五世に嫁ぎ、ヘンリー五世がフランス王位の跡継ぎと定められた。王妃のイザボー・ド・バヴィエールもこの条約に加わっている。王太子はモントローの殺害を理由に跡継ぎから外された。王の娘の夫が、王の息子に代わって跡継ぎになったのである。
一四二二年、ヘンリー五世とシャルル六世が相次いで没した。王位を主張したのは、生まれて一年に満たないヘンリー六世と、ロワール川の南にいたシャルル七世である。
一四二九年、ジャンヌ・ダルクの働きで、シャルル七世はランスで戴冠した。一四三五年、フィリップ善良公はアラスの和約でシャルル七世と和解し、イングランドとの同盟を離れた。ブルゴーニュ公家が王家の側に戻り、戦争はフランスに有利になった。
一四四〇年、シャルル・ドルレアンは身代金を払ってイングランドから戻った。身代金の一部を出したのはフィリップ善良公で、シャルルに自分の姪のマリー・ド・クレーヴを嫁がせている。マリーの母はジャン無怖公の娘である。殺された者の子が、殺させた者の孫娘を妻に迎えた。
ブルゴーニュ公家は、フィリップ善良公の子のシャルル突進公の代で終わった。一四七七年、シャルルはナンシーで戦死し、娘のマリー・ド・ブルゴーニュはハプスブルク家のマクシミリアン一世と結婚した。ブルゴーニュ公領はフランス王ルイ十一世が取り、ネーデルラントはハプスブルク家へ渡った。
オルレアン家からは王が出た。一四九八年、シャルル八世が子を残さずに没すると、シャルル・ドルレアンとマリー・ド・クレーヴの子がルイ十二世として即位した。殺されたルイの孫であり、殺させたジャンの曾孫でもある。一五一五年には、オルレアン公ルイの子ジャン・ダングレームの家から、シャルル・ダングレームの子のフランソワ一世が王となった。
フランソワ一世と争ったのは、神聖ローマ皇帝カール五世である。カール五世はマリー・ド・ブルゴーニュの孫で、フランソワ一世はオルレアン公ルイの曾孫にあたる。一五二五年、パヴィアで捕らえられたフランソワ一世は、翌年のマドリード条約でブルゴーニュ公領を渡すと約束させられたが、解放されるとすぐにこの約束を破った。百年あまり前に争った二つの家の子孫が、同じ公領をめぐってまた争ったことになる。