一八六三年の暮れ、朝鮮王朝の王哲宗が子を残さずに没し、少年の高宗が王位に就いた。実権を握ったのは、王の父の興宣大院君である。十年後、王がみずから政治を執り始めると、力は王妃の閔妃とその一族へ移った。父と妻の争いは、清と日本が朝鮮に入り込んでくる時代と重なり、一八九五年に王妃が殺されるまで続いた。
哲宗の死後、次の王を選んだのは、王室の年長者である大王大妃の神貞王后であった。選ばれたのは、王族の傍流にあたる李昰応の次男の高宗で、兄に李載冕がいた。李昰応の父の南延君は、思悼世子の子恩信君の家を養子として継いだ人である。高宗は、神貞王后の亡き夫の孝明世子の養子という形で王位に就いた。
朝鮮では、傍系から王が立つと、その父に大院君の称号が贈られる。ふつうは亡くなった父に贈る名だが、李昰応は生きていた。生きたまま大院君となったのは、朝鮮王朝でこの人だけである。
大院君は、王妃を出す家として力をふるってきた安東金氏を朝廷から退けた。地方では、書院の多くを取り潰している。書院は儒学者が集まる私設の学校で、税を免れ、地方の両班の拠点になっていた。壬辰倭乱で焼けたままだった景福宮も建て直したが、費用を集めるために当百銭という高額の銭を出し、物価が大きく上がった。
外に対しては国を閉ざした。一八六六年からカトリックの信者を厳しく弾圧し、フランス人の神父九人も処刑した。これがフランス艦隊の来航を招き、一八七一年にはアメリカの艦隊も来たが、大院君はどちらも退けている。各地には、西洋と和を結ぶことは国を売ることだと刻んだ斥和碑を立てた。
王妃を選んだのも大院君である。選ばれたのは、大院君の妻の府大夫人閔氏と同じ驪興閔氏の娘で、早くに父を亡くしていた閔妃であった。後ろ盾のない家の娘なら、外戚として力を持つことはないと大院君は考えた。閔妃の父の家を継いだのも、大院君の妻の弟の閔升鎬である。
ところが閔妃は、大院君の思うようにはならなかった。高宗は宮女の李氏とのあいだに男子の完和君をもうけ、大院君はこの子をかわいがった。この子を世子に立てようとしたとも言われる。閔妃が初めて産んだ男子は、生まれて数日で没している。閔妃は、大院君に不満を持つ人々を少しずつ自分の側へ集めていった。
一八七三年、儒学者の崔益鉉が大院君の政治を批判する上疏を出した。これをきっかけに、高宗はみずから政治を執ると宣言する。大院君は退き、閔妃の一族が朝廷の要職を占めていった。閔升鎬も、大院君の妻の弟でありながら閔妃の側に立った。閔升鎬は一八七四年に爆死し、大院君の側の仕業と疑われている。
同じ一八七四年、閔妃は男子の純宗を産み、翌年には世子に立てさせた。一八七六年には、朝鮮は日本と条約を結び、国を開いている。完和君は一八八〇年に幼くして没した。
一八八二年、旧式軍隊の兵士たちが反乱を起こした。給料の米が一年以上も払われず、ようやく渡された米には砂がまじっていたことが、きっかけであった。壬午軍乱である。兵士たちは大院君を頼り、閔妃の一族の屋敷や日本公使館を襲った。閔妃は宮殿を逃れて地方に身を隠し、大院君がふたたび実権を握る。
だが、清がすぐに兵を送り、大院君を清へ連れ去った。閔妃は宮殿へ戻り、こんどは清の力を借りて政治を動かした。大院君が朝鮮へ帰されたのは、三年後のことである。
一八九四年七月、日本軍は王宮を押さえ、大院君にふたたび政治を任せる形を取った。まもなく日清戦争が始まる。戦争に勝った日本に対して、閔妃はロシアに近づき、日本の力を抑えようとした。
一八九五年十月、日本の公使三浦梧楼の指図で、日本の軍人や壮士らが景福宮に押し入り、閔妃を殺害した。遺体は焼かれている。乙未事変である。このとき大院君も宮殿へ連れて来られ、事件に加わった形にされた。日本は三浦らを広島で裁判にかけたが、全員が証拠不十分として釈放された。
身の危険を感じた高宗は、翌一八九六年にロシアの公使館へ移り、一年近くそこで政治を執った。宮殿へ戻った一八九七年、国号を大韓帝国と改めて皇帝となり、閔妃に明成皇后の名を贈っている。大院君は翌一八九八年に没した。
図では、高宗の上に父の大院君が、横に妻の閔妃が並ぶ。大院君の妻と閔妃は、同じ驪興閔氏の出であった。外戚に力を持たせないために、自分の妻の一族から後ろ盾のない娘を選んだことが、かえって王の父と王妃を同じ宮廷で争わせることになった。
閔妃の子の純宗は、一九〇七年に皇帝となった。三年後、大韓帝国は日本に併合される。純宗は、朝鮮王朝の最後の君主である。