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後漢の外戚と宦官:幼い皇帝の母の一族が政治を握った

後漢は、西暦二五年に光武帝が建てた王朝である。四代目の和帝から後は、ほとんどの皇帝が十代の前半か、それより幼い年で即位した。幼い皇帝に代わって政治を執ったのは、皇太后と、その父や兄弟である。皇帝の母や妻の一族を外戚という。成長した皇帝は、外戚から政治を取り戻すために、宮中で身近に仕える宦官の力を借りた。この記事では、外戚と宦官が代わる代わる力を握った百年あまりを、皇帝の系図と外戚の家の系図でたどる。

外戚と宦官

外戚は、娘や姉妹が皇后になったことで力を得た家である。皇帝が幼いと皇太后が政治を執り、その父や兄弟が大将軍などの高い位に就いて、実際の政務を握った。

宦官は、去勢されて宮中に仕えた男性の役人である。皇帝の暮らしの世話をするため、皇帝のそばに出入りできた。外戚に押さえられた皇帝にとって、外戚と関わりのない宦官は、数少ない頼れる相手であった。

竇氏と和帝

八八年、章帝が若くして没し、幼い和帝が即位した。政治を執ったのは、章帝の皇后で竇勲の娘の竇皇后、すなわち竇太后である。和帝の生母は別の妃だが、竇太后が母として和帝を育てていた。竇太后の兄の竇憲は大将軍となり、北の匈奴を破って名を上げた。

九二年、成長した和帝は、宦官の鄭衆らと計って竇憲を退け、自殺に追い込んだ。後漢で宦官が政治に深く関わるようになったのは、このときからとされる。

鄧太后の十五年

一〇五年、和帝が二十代で没した。皇后の鄧綏、すなわち鄧太后は、生まれて百日あまりの皇子を帝位に就けた。殤帝である。殤帝は翌年に没し、鄧太后は和帝の兄の劉慶の子を迎えた。十代前半の安帝である。

鄧太后は一二一年に没するまで政治を執り、兄の鄧騭が大将軍として朝廷を率いた。二人の父は鄧訓である。鄧太后が没すると、安帝は乳母や宦官と結んで、鄧氏の一族を退けた。

宦官が皇帝を立てる

一二五年に安帝が没すると、皇后の閻氏は幼い王族を帝位に就けたが、その子は数か月で没した。宦官の孫程ら十九人は兵を挙げて閻氏の一族を倒し、安帝の子で、皇太子の位を追われていた順帝を立てた。宦官が自分たちの手で皇帝を立てたのである。十九人は、そろって侯に封じられた。

跋扈将軍

順帝の皇后梁妠の父の梁商が大将軍となり、梁商の死後はその子の梁冀が跡を継いだ。一四四年に順帝が没すると、梁太后と梁冀は、順帝の幼い子の沖帝を立てる。沖帝が翌年に没すると、王族の傍流から幼い質帝を迎えた。

質帝は朝臣の前で、梁冀を「跋扈将軍」と呼んだ。勝手気ままにふるまう将軍、という意味である。梁冀はまもなく質帝に毒を盛って殺した。次に立てられた桓帝は、梁冀の妹を皇后に迎えている。梁冀は二十年近く、政治を思うままに動かした。

五人の宦官

一五九年、桓帝は宦官の単超ら五人と計って、梁冀の屋敷を兵で囲ませた。梁冀は自殺し、一族の多くが殺された。五人の宦官はそろって侯に封じられ、これより後は宦官が政治を動かすようになる。

宦官の一族は地方の官職を占め、不正も目立った。これを批判したのが、儒学を学んだ官僚や太学の学生である。一六六年と一六九年、宦官は彼らを「党人」として捕らえ、官職に就くことを禁じた。党錮の禁という。

竇武の失敗

一六八年に即位した霊帝も、王族の傍流から迎えられた少年であった。桓帝の皇后の竇妙とその父の竇武が政治を執り、竇武は宦官を朝廷から除こうと計った。だが計画は宦官に知られ、宦官の側が先に兵を動かした。竇武は追い詰められて自殺している。

何進と董卓

霊帝の皇后の何皇后の兄、何進は大将軍となった。二人は何真の子である。一八四年には黄巾の乱が起き、各地が乱れた。

一八九年に霊帝が没すると、何皇后の子の少帝が即位した。何進は宦官を残らず除こうとして、地方の将軍の董卓らを都へ呼び寄せる。だが、計画を知った宦官に、何進は宮中で殺された。何進の部下の袁紹らは宮中に攻め入り、二千人あまりの宦官を殺した。そこへ董卓が都に入り、少帝を廃して、霊帝の別の子の献帝を立てた。外戚も宦官もいなくなり、政治の実権は兵を持つ者の手に移った。

家系図で見ると

皇帝の系図をたどると、和帝の系統は殤帝で絶え、安帝、桓帝、霊帝は、いずれも章帝のほかの子の系統から迎えられている。桓帝は章帝の子劉開の孫で、父は劉翼である。霊帝は劉開の曾孫で、祖父は劉淑、父は劉萇である。皇帝に跡継ぎがいないとき、皇太后と外戚は王族の傍流から幼い子を選んだ。皇帝が幼いあいだは、自分たちが政治を執り続けられるからである。

外戚の家の系図を見ると、竇氏、鄧氏、梁氏、何氏は、どれも娘が皇后となり、その父や兄弟が大将軍となっている。皇帝が成長して自分で政治を執ろうとすると、外戚に対抗できる味方は宦官しかいなかった。外戚が宦官に倒され、宦官がまた次の外戚と争う。後漢の後半はこのくり返しで、朝廷が争っているあいだに、地方の乱を抑える力を失っていった。