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ペドロ一世とエンリケ二世:異母兄弟の争いを孫どうしの結婚でおさめた

一三六九年三月、カスティーリャ王ペドロ一世は、モンティエルの陣中で異母兄のエンリケに殺された。エンリケはエンリケ二世として即位し、トラスタマラ家の王が始まる。殺された王の娘はイングランドの王子に嫁ぎ、夫婦はカスティーリャの王位を求め続けた。争いがおさまったのは、ペドロの孫娘とエンリケの孫が結婚したときである。

正妃の子と愛人の子

アルフォンソ十一世には、正妃マリア・デ・ポルトゥガルとのあいだに生まれたペドロのほかに、長く寵愛したレオノール・デ・グスマンとのあいだに十人ほどの子があった。その一人がエンリケで、ペドロより数か月早く生まれている。父はエンリケにトラスタマラ伯の地位を与えた。

一三五〇年、アルフォンソ十一世はジブラルタルを囲む陣中で黒死病にかかって没した。十五歳のペドロが王になると、母のマリアはレオノールを捕らえ、翌年に殺させた。

兄弟を除く王

ペドロは激しい気性で知られ、のちに残酷王と呼ばれた。正義王と呼ぶ者もいる。一三五三年、フランス王家と縁の深いブランシュ・ド・ブルボンを妃に迎えたが、数日で離れ、のちに幽閉した。ペドロが愛したのは貴族の娘のマリア・デ・パディーリャで、二人のあいだにはコンスタンサなどの子が生まれた。マリアの死後、ペドロは議会で、マリアと先に結婚していたと述べ、その子たちを正式な跡継ぎとした。

一三五八年、ペドロはエンリケと双子のファドリケを殺させ、ほかの異母兄弟やその味方も次々に除いた。エンリケは国外へ逃れ、アラゴンとフランスの支えを得て対抗した。

外国の軍が王を決める

一三六六年、エンリケはフランスのベルトラン・デュ・ゲクランが率いる傭兵団を連れて攻め込み、ブルゴスで王を名のった。ペドロはガスコーニュへ逃れ、イングランドのエドワード黒太子に助けを求めた。翌一三六七年、黒太子の軍はナヘラでエンリケを破り、ペドロは王位に戻った。しかしペドロは約束した軍費を払えず、黒太子は病を得て兵を引いた。

一三六九年、エンリケは再びフランス軍とともに戻り、モンティエルでペドロを破った。城にこもったペドロは、デュ・ゲクランの陣へ出向いたところでエンリケと組み合いになり、殺されたと伝えられる。カスティーリャの兄弟の争いには、百年戦争を戦うイングランドとフランスが、それぞれの側について加わっていた。

王となったエンリケ二世は、味方した貴族に多くの領地を与え、恩寵王と呼ばれた。妃のフアナ・マヌエルは、王家の分家の出で、作家としても知られるフアン・マヌエルの娘である。

娘がイングランドへ

ペドロの娘のコンスタンサは、一三七一年、エドワード三世の子のジョン・オブ・ゴーントと結婚した。ジョンは妻の権利によってカスティーリャ王を名のった。一三八六年にはポルトガルと同盟を結び、兵を率いてガリシアへ上陸した。最初の妻との娘のフィリパは、ポルトガル王ジョアン一世に嫁いでいる。

ペドロのもう一人の娘のイサベルは、ジョンの弟のエドマンド、のちのヨーク公に嫁いだ。ヨーク家の王たちは、この結婚を通じてペドロの血を引いている。

孫どうしの結婚

一三八八年、バイヨンヌで和約が結ばれた。ジョンとコンスタンサの娘のカタリナ・デ・ランカスターが、エンリケ二世の孫のエンリケ三世と結婚し、ジョンは王位の請求を取り下げた。代わりに多額の金を受け取っている。このときエンリケ三世は、王位の跡継ぎとしてアストゥリアス公を名のった。スペイン王の跡継ぎがいまもアストゥリアス公と呼ばれるのは、ここに始まる。

エンリケ二世の家は王位を手にしたが、殺された王の血は国の外にあった。この結婚で、二つの血がカスティーリャ王家の中で一つになった。二人の子のフアン二世は、ペドロ一世とエンリケ二世の両方の曾孫にあたる。

アラゴンへ伸びた枝

フアン一世の次男のフェルナンド・デ・アンテケーラは、甥のフアン二世が幼いあいだ、カスティーリャの政治を見た。一四一〇年にアラゴンの王家が男子を欠いて絶えると、母のレオノール・デ・アラゴンがアラゴン王の娘であることを根拠に王位を求め、一四一二年、カスペの会議でアラゴン王に選ばれた。

その子のアラゴン王フアン二世の子がフェルナンド二世、カスティーリャ王フアン二世の娘がイサベル一世である。二人はどちらもフアン一世の曾孫で、又いとこにあたる。一四六九年の二人の結婚は、ちょうど百年前に兄弟の争いから始まった家の二つの枝を、もう一度結んだことになる。

家系図で見ると

家系図では、ペドロの枝はコンスタンサで止まっているように見える。しかしその娘のカタリナは、エンリケの枝の中に、エンリケ三世の妃として入っている。勝った側の家の系図の中に、負けた王の血が妃の名で残っている形である。