一三九七年、スウェーデン南東部の町カルマルで、一人の若者がデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの三つの王国の王として戴冠した。ポンメルン公の家に生まれたエーリクである。この連合を作ったのは、エーリクの大叔母にあたるデンマーク王の娘マルグレーテ一世であった。三つの王冠は、婚姻と死と養子縁組を重ねて、一人の王のもとに集まった。
マルグレーテは一三五三年、デンマーク王ヴァルデマー四世の娘として生まれた。父は、質に入れられていた国土を買い戻し、ばらばらになっていたデンマークを立て直した王である。十歳のとき、ノルウェー王ホーコン六世と結婚する。ホーコンは、スウェーデンとノルウェーの王を兼ねたマグヌス・エリクソンの子で、一時はスウェーデンの王でもあった。
二人のあいだには、一三七〇年に男子のオーラヴが生まれた。デンマークとノルウェーの両方の王家の血を引く子である。
一三七五年、ヴァルデマー四世が息子を残さずに没した。デンマークの王位は、有力者たちが選ぶ形をとっていた。マルグレーテの姉インゲボーはメクレンブルク公ハインリヒ三世に嫁いでおり、その子もデンマークの王位を求めた。長女の子であるこちらのほうが、血筋の上では先であった。
マルグレーテは貴族と教会の支持を取りつけ、五歳のオーラヴを王に選ばせた。自分は母として国を治める。一三八〇年に夫ホーコン六世が没すると、オーラヴはノルウェーの王位も継いだ。デンマークとノルウェーは、ここで一人の王のもとにまとまった。
一三八七年、オーラヴが十六歳で急に没する。マルグレーテは、デンマークでもノルウェーでも、王の母としてではなく、自分の名で国を治めることを認めさせた。デンマークでは、女王として戴冠するのではなく、「全権を持つ女主人」という称号で国を治めている。
スウェーデンでは、メクレンブルク家のアルブレヒトが王位にあった。マルグレーテの姉の夫ハインリヒ三世の弟にあたる。ドイツから連れてきた家臣を重く用いたために、スウェーデンの貴族の不満を買っていた。貴族たちはマルグレーテを頼り、一三八九年、マルグレーテの軍はアルブレヒトを破って捕らえた。三つの王国の実権が、マルグレーテ一人のものになったのである。
マルグレーテには、もう跡を継ぐ子がいなかった。そこで姉インゲボーの孫にあたる幼いエーリクを引き取る。父はポンメルン公ヴァルティスラフ七世、母はインゲボーの娘マリアである。生まれたときの名はボギスラフで、スカンディナヴィアの王家で使われてきたエーリクという名に改められた。
エーリクはまずノルウェーの王となり、ついでデンマークとスウェーデンでも王に選ばれた。一三九七年六月、三つの王国の有力者がカルマルに集まり、エーリクは三国の王として戴冠する。三国はそれぞれの法を保ったまま、一人の王を共に戴くとされた。これがカルマル同盟である。
このとき作られた文書のうち、連合の取り決めを記したものは、羊皮紙ではなく紙に書かれ、押された印も一部しかない。正式に結ばれた約束だったのか、案のまま終わったものなのかについては、いまも意見が分かれている。
戴冠のときエーリクは十五歳ほどで、国を動かしたのはその後もマルグレーテであった。マルグレーテは一四一二年に没するまで、三つの王国を実際に治め続けた。
エーリクには子がなく、治世の後半には三国の貴族と対立した。一四三四年には、スウェーデンでエンゲルブレクトの率いる反乱が起きている。エーリクは一四三九年にデンマークとスウェーデンで、一四四二年にノルウェーで、王位を追われた。その後はゴットランド島でしばらく暮らし、最後は故郷のポンメルンへ戻って、一四五九年に没している。あとを継いだのは、エーリクの妹カタリーナと、ヴィッテルスバッハ家のヨハンとのあいだに生まれたクリストファであった。王位はここでも、女性をたどって甥へ渡っている。
クリストファも一四四八年に子を残さずに没した。スウェーデンは自分たちの王を選び、同盟は名ばかりのものになっていく。スウェーデンがはっきりと離れたのは一五二三年、グスタフ・ヴァーサが王に選ばれたときである。デンマークとノルウェーの連合は、その後も一八一四年まで続いた。
三つの王国を一人の王にまとめたのは、男系の相続ではなかった。マルグレーテは父の王位を息子に継がせ、息子が死ぬと姉の孫を王に立てた。そのあとは、その孫の妹の子が王位に就いている。どれも女性を通じた継承である。カルマル同盟は、この受け渡しの上に成り立っていた。